So-net無料ブログ作成

[書評]不具であることの素晴らしさ。:又吉直樹著「火花」。 [詩・小説]

正月は娘と奥さんと一緒に故郷に戻るので、今日の朝は娘との散歩ついでに自宅近くの神社にお参りをしてきた。

今年―2015年―もいろいろなことがあったけれど、今年読んだ本の中で一番面白かったのは、やっぱりこの本だったと思う。
今年すごく話題になった小説「火花」。芸人コンビ「ピース」の又吉直樹さんの小説デビュー作にして、2015年上半期芥川賞受賞作。

*

物語は、漫才師である主人公が出会った先輩漫才師、神谷との交流を中心に描かれる。
熱海の花火大会での漫才の営業の際に神谷に出会った漫才師の主人公・徳永は、神谷の純粋なまでの笑いへの追求心に強く惹かれ、弟子入りを志願する。
笑いに真摯に取り組むがゆえに、舞台上でも日常でも世間からは受け入れられない神谷の姿に強く引き付けられる主人公。
破天荒な神谷の行動と、その笑いに対する考え方が語られる短いエピソードの集積で物語は展開していく。


この小説はすごい。
すごいし面白い。
この本には、テレビの中でお馴染みの又吉さんの喋りをそのまま彷彿とさせるような会話がふんだんに登場して、それが本当に本当に面白い。(芥川賞の受賞作を、声を出して笑いながら読み進んだのはこれが初めてじゃないだろうか?)

弾丸のような神谷の喋りと、朴訥とした主人公・徳永との会話。
その中で、おそらくは又吉さんが考える、芸人としてのあるべき姿や、芸人としてのやるべきこと、人間としてどうあるべきかといった考えが先輩芸人・神谷の声を通して語られていて(そこには又吉さんの口調を彷彿とさせる主人公の突っ込みも入る)、一読して作者が自分の世界の、愛するものの全てを詰め込もうとした作品なのだなということが分かって読んでて嬉しくなる。

おそらくは、ずっと手元に置いておきたくなる本の一つになると思う。


*

この小説は、細かいエピソードの集積で語られている。
そのエピソードはおそらくは又吉さんの周りの芸人さんの様々なエピソードの凝縮であり、日ごろ又吉さんが考え心がけていることの結晶であるんだろうと思う。

それは例えば僕には、中島敦の小説「悟浄出世」を思い出させる。

中島敦の「悟浄出世」は、まだ三蔵法師に出会う前の沙悟浄が、人生に迷い、流沙河という深い河の中で様々な老妖怪を訪ね歩く話。

その「悟浄出世」の中、沙悟浄が生き方に迷い、高名な妖怪を訪ね歩こうとする場面の文章にはこう書かれている。

妖怪の世界にあっては、身体と心とが、人間の世界におけるほどはっきりと分かれてはいなかったので、心の病はただちに烈しい肉体の苦しみとなって悟浄を責めた。堪えがたくなった渠(かれ)は、ついに意を決した。「このうえは、いかに骨が折れようと、また、いかに行く先々で愚弄され哂われようと、とにかく一応、この河の底に栖むあらゆる賢人、あらゆる医者、あらゆる占星師に親しく会って、自分に納得のいくまで、教えを乞おう」と。 渠(かれ)は粗末な直綴を纏うて、出発した。
なぜ、妖怪は妖怪であって、人間でないか? 彼らは、自己の属性の一つだけを、極度に、他との均衡を絶して、醜いまでに、非人間的なまでに、発達させた不具者だからである。


流沙河の底には様々な妖怪が棲んでいて、彼らはその生き方を体現した異形の身体をもって生活している。

「悟浄出世」に登場し、沙悟浄が訪ね歩くことになる数々の老妖怪たち―老荘思想や、快楽主義や、ストイシズムを身体で体現する、そうした奇形の身体を持った老妖怪たち。

「火花」の中の神谷の人物像が、又吉さんの周りの様々な芸人さんから着想を得て作られたと考えるとき、僕は中島敦の「悟浄出世」の、この流沙河の風景を思い出す。


*


あるいは、芥川龍之介の短編集。

「羅生門」での、屍体から髪を抜く老婆や、「鼻」での、自分の鼻を縮めることに血道をあげる僧・禅智内供や、あるいは「芋粥」での、芋粥に対する欲望を心の底に持つ下位貴族・五位の某たちは、その異形な想いが物語の推進力となってそれぞれの物語を進めていく。

「火花」のエピソードの集積は、こうした芥川龍之介の短編集の異形な世界を思い出させる。


(そしてまた「火花」で推進力となっているその人物像は、複数の人間の英雄譚が一人の人間に凝縮されているであろう「古事記」や「日本書紀」のヤマトタケルのようでもある。)


*


この小説の後半、神谷も主人公も、漫才の舞台からは離れていく。

そして主人公が、あるいは神谷が舞台上の漫才から遊離すればするほど、物語の中では「漫才師」の姿が浮かび上がってくる。主人公たちの運命が転落の影を帯びてもなお、いやむしろ帯びれば帯びるほど、その輪郭はくっきりとしていく。

(物語終盤の、世の中の全てのマイナスをプラスに転換していくような漫才のシーンは、本当に泣きそうになる。)

舞台の上の漫才師ではなく、まるで人生そのものの中で漫才師であろうとするような。

あるいは、世界そのものに突っ込みを入れて、負の出来事をくるりくるりと変換していく術を示す指南書のような。

そういった英雄(たち)の姿を描いた、本当に素晴らしい小説。


*


「人生は悲劇だけれども、遠くから眺めると喜劇だ(Life is a tragedy when seen in close-up, but a comedy in long-shot)」っていうのはチャップリンの言葉だっけ。

ひとが一人だと、負の出来事を中からしか見られないけど、二人だとどっちかを外から見られる。

漫才っていいね。



nice!(11)  コメント(1)  トラックバック(0) 
共通テーマ:

[海外記事]1月11日に呼び覚まされた連帯、コミュニオン。≪C’est la communion, l’unite du 11 Janvier qui vient d’etre visee≫ [海外記事]

11月13日にパリで起こったフランスの同時多発テロについて、その2日後にフランスの「Liberation」紙に深く胸に刺さるインタビューが載っていたので訳してみた。

フランスの哲学者、アブデノール・ビダル氏へのインタビュー。氏はフランス生まれ、フランス在住のフランス人でイスラム教徒であり、イスラムの宗教哲学を専門とする哲学者。

3つの質問に答える形で掲載されたこの記事では、世界の中でのイスラムの立場、これからのイスラムがなすべき仕事、1月の「シャルリー・エブド」の事件以降のフランスの情勢などが語られている。

これを読むと、今回のテロでは西側よりもむしろイスラム世界の方がより重い課題を背負い、大きな傷を負っているのがわかる。

仏Liberation紙、2015年11月15日の記事。


*


1月11日に呼び覚まされた連帯、コミュニオン。≪C’est la communion, l’unite du 11 Janvier qui vient d’etre visee≫


http://www.liberation.fr/debats/2015/11/15/abdennour-bidar-c-est-la-communion-l-unite-du-11-janvier-qui-vient-d-etre-visee_1413614
Liberation,Par Alexandra Schwartzbrod 15 novembre 2015 a 18:06


アブデノール・ビダル「1月11日に呼び覚まされた連帯、コミュニオン(※)」

 ※コミュニオン=ミサにおける聖餐、転じて宗教的な連帯、人々の調和のこと。


この哲学者によるとテロリストは、「ムスリムと非ムスリム、市民とそれを“守ることができない“政権側、というように我々が互いに対立すること」を望んでいるという。

宗教哲学者、 アブデノール・ビダル氏は、イスラム世界と世俗主義の関係について仕事を行ってきた。
2015年、彼は『兄弟のための嘆願』(アルバンミシェル社)と『イスラム世界への公開書簡』(レ・リアン・キ・リベラン社)を発表した。


―もし「イスラム世界」へ何か言葉を届けるとしたら、何を言いますか?

Daesh(*訳注1)はイスラム世界の癌であり、イスラムの世界を侵食し、壊しています。この痛みの上に、私は問題の緊急性を強調したいと思います。イスラムの市民世界は、世界の市民世界の中での病人と言えます。そしてDaeshはその最も重篤な症状なのです。しかしここで、そうした政治的、精神的なモラルの破壊などの破綻がどこから起こるのだろうかという疑問に至ります。それは王族が原理主義者の世界プランに資金を提供しているような、湾岸諸国のどこを見ても民主主義が欠如しているような地域であったり、それにアラブの春の失敗(勇気溢れるチュニジアを除きます―チュニジアも恐ろしく不安定ですが)、女性を奴隷のように扱う根強い伝統や、あるいは他には超厳格主義に基づいた新保守主義などが挙げられるでしょう・・・

Daechは危険かつ苦痛な、現在の市民文明の顕れに過ぎないのです。厳密に言うと、私の愛するこうした偉大な精神と文化が、虚空へと沈んでいくのを見るのは苦しいです。イスラム教は、世界に対してどのように精神的世界や幸福な社会を示し、知的・文化的な影響を与え、人間の進歩に貢献できるのでしょうか?Daeshは人間の生活を、イスラムでいう自己と他を破壊するもの、つまり死であり人間の罪への行進であるとして、卑しいものとする視点を持っています。意識するしないに関わらず、それは黙示録的な状態へと我々を誘い、彼ら自らも含め反人間的で原理主義的な力の餌食となるのです。イスラム教徒を含む世界のヒューマニストたちは、急いでこの狂ったシナリオへ抵抗勢力を協力させ、連合すべきです。

*訳注1:Daesh いわゆる「イスラム国」のこと。「イラク・レバントにおけるイスラム国」のアラビア語名称(ad-Dawlah al-Islāmiyah fī 'l-ʿIrāq wa-sh-Shām)の略。


―1年前、あなたがイスラムに対して警告した仕事(*訳注2)はなされてはいないのでしょうか?

全てはそこに注意が払われるかどうかにかかっているのです。これは長期的であるとともに非常に緊急の作業でもあります。なぜなら、どんな社会であってもそれは教育制度の改革を含むからです。この2つの動き―もっと破綻を!もっと前近代を!といった動き―は、神への「服従」という宗教的敬意に縛られた囚人なのです。彼らのこの神への「服従」は、人間存在の自由の原則の上に立った世界の文明化の最前線と言えます。その服従による超法規的な支配関係による偏見は、支配のリンク―ドミノ効果や連鎖反応―の呪縛を導きます。その支配の関係は例えば、宗教法の中での人間や、宗教指導者の中での普通の信者たち、男性の中での女性、全ての宗教的・政治的な権威の共犯関係や競争関係などがあたります。文明の果実の中での形而上的なワームがここには見られます。それは人口に膾炙したハイカルチャーの、精神の深い部分に埋め込まれていて、政治制度や社会の組織や、マナーや習慣、社会的あるいは個人的な関係性にまで影響を浸透させています。一言でいうと、その範囲は広大なのです。

これに比べ、Daeshの壊滅は緊急の課題であることは知られています。それ(=教育の改善とDaeshの壊滅)はイスラムを偉大な文化と文明として再生するでしょう。どこでもユダヤ人とクリスチャンとムスリムが寛容の社会の中で友人として過ごしていた、アンダルシアの黄金の時代(*訳注3)のように。そしてまた、我々は過去に生きるべきではありません。宗教の原始の「核」もしくはその「根源の霊」へのいわゆる立ち返りによって宗教の「再会」のふりをするだけではなく、新しいものを創造し、新たなイスラムの精神を造り出し、宗教を超えて、現代とその後の世界においてイスラムの道を見つけることです。これがDaeshが失敗してきたことであり、彼らを狂信へと導いた原因でもあります。それらは過去ではなくむしろ現在の病巣の根源に立ち戻って理解するための、文明化における最も不安定な要素なのです。この地域での文明化は、土地を守る力がないために恥辱と苦悶にまみれています。また今日では、そういった文明化に意味を見出だすことは無意味でもあります。世界の国の中で、このような地域―カネが産まれる湾岸ではなく、聖地として見られるような地域―は他に見られません。

*訳注2:2015年にBiderが出版した著書『Lettre ouverte au monde musulman(イスラム世界への手紙)』を指す。

*訳注3:レコンキスタ完了(1492年)以前の、イベリア半島で各民族が共存していた時代を指すと思われる。


―「シャルリー・エブド」の襲撃以降の議論を、あなたはどのように説明しますか?またそれを誰に向けて―市民社会や、政界や、専門家や、宗教的指導者など―アピールしますか?

その恐怖によってでも、職責によってでも、私は麻痺してしまうのではなくともに動くよう働きかけます。危機に瀕しているものを理解しましょう。それは1月11日に示されたコミュニオンなのです。私たちはあの日、団結と同胞愛を実証したと思います。それは普遍的価値のシンボルとして思い起こされた、「フランス」の力です。そこから我々は臆病な群衆ではなく抵抗する群衆になり、悪に対して声をあげることを善としました。復讐によってではなく団結によって、人間主義のための集団的な行動によって差別なく立ち上がる群衆となったのです。これこそが、テロリストの行為が私たちの間に広めていくことなのです。別の言葉でいうと、私たちが世界で何を体現したいかという場所に、彼らは連れて行ってくれたことになります。彼らは私たちを人間として破壊し、またこの正義、自由、平和を希求する社会―それは何もできない虚無に対して生と愛の力を体現しています―を破壊しようとしています。彼らは、彼らの持つ虚無より強いものを全滅させるため、私たちの団結に強い打撃を与えること模索してきました。

それゆえに、無力感と恐怖から彼らは勝利を追い求め、イスラム教徒でない人間はイスラム教徒に対して、私たちは互いに背を向け、市民は政治家や政府に対して、テロリストが私たちに言っている政治―つまりは「あなたたちを守ってはくれない」政治―に対して背を向けます。

我々は、我々を導こうとするこの心理的メカニズムに対して、ともに抵抗し、そしてそれによって、敵を誤認しないようにしなければなりません。敵は外にいるのです。内側の敵の罠―ここに住んでいるイスラム教徒や、移民や、難民を指さしている敵の罠―にかからないようにすることです。テロリストにのって、我々自身を敵としてはなりません。彼らは自分自身をよくしっています。 彼らは私たちを打ち負かすことはできませんが、それゆえに彼らは、私たちを議論の誘惑へと誘い込もうとしているのです。これが、我々がこれからの数週間で、この最大の集団的エネルギーと闘わなければならない理由なのです。そして彼ら自身のイメージを市民全体に植え付けようとするもの全てに、共同で打ち勝つのです。

私は周囲に対して義務を持つ人、また現在責務を引き受けようとする人に呼びかけます。その力は私たちの、私たちによる、私たちを守るための結束を固めていきます。それは社会と人間の繋がりを強くしていき、各々が持つ力を引き下げる陥穽でもある社会と文化の分断を無くしていきます。全ての繋がり、例えば社会的団結の修復や、異文化間の対話の再構築、、ソーシャルネットワーク上での善意の拡散、近隣や自治区やコミューンの広場での会合といった、具体的な全ての準備は社会への参画を希求しており、既にそれは実証をし始めています。私たちは人間主義と市民社会から孤立し、虚無に陥ってはいけないのです。





*

このインタビューで示されているのは、毅然とした対応から導き出される、他民族との連帯である。

アルジェリアやベトナムといった過去を抱えて、「シャルリー・エブド」以降のフランスはその社会自体が寛容と対テロリズムとの両立の象徴になっているように思われる。

理想がテロ―恐怖で揺らいではいけない、といった信念が、このインタビューからは読み取れるように思う。





nice!(11)  コメント(1)  トラックバック(0) 
共通テーマ:

[映画]様々な人生と、人が歩む道筋と。:映画『善き人のためのソナタ』(Das Leben der Anderen) [映画・ドラマ]

ITの研究会で「女性のためのワークライフバランス向上」をテーマにして資料を作っている関係で、東ドイツの福祉政策に興味をもって、いま東ドイツの生活についての本を読んでいる。

(『私は東ドイツに生まれた』。フランク・リースナー著、生田幸子訳、清野智彦監修、東洋書店。)

ついでにテレビで深夜に偶然、東ドイツを舞台にした大好きな映画(「グッバイ、レーニン!」)がやってたのでとりあえず録画して、さらについでにレンタルビデオ屋さんに行って、東ドイツを舞台にした映画を借りて観てたら、なんとなく出川哲郎さんのことを思い出してしまった。
(これも一度見たことがある映画なんだけど、目上の知り合いの人が「一番好きな映画」と言っていたのを思い出したので。)

*

『善き人のためのソナタ』(Das Leben der Anderen)。ドイツ、2006年製作。フロリアン・ヘンケル・フォン・ドナースマルク監督。


善き人のためのソナタ スタンダード・エディション [DVD]

善き人のためのソナタ スタンダード・エディション [DVD]

  • 出版社/メーカー: アルバトロス
  • 発売日: 2011/10/17
  • メディア: DVD



旧東ドイツ時代の、シュタージ(秘密警察)の局員、ゲルト・ヴィースラーが主人公。
国家に反逆する可能性がある人物を監視・盗聴することを職務としている彼は、劇作家ゲオルク・ドライマンの監視を命じられる。ドライマンの階下の部屋で彼の生活を盗聴していく過程で、盗聴しているヴィースラーの心境にも変化が生じていく、っていう映画。

*

この映画では、他人の生活が描かれる。(ドイツ語原題:Das Leben der Anderenは、まさに「他人の生活」という意味。)

アパートに暮らし、東ドイツ当局の締め付けに苦しみながら、やがて危険を冒して匿名の記事を発表することを決意する、劇作家ドライマン。

ドライマンと半同棲し、しかしその美貌ゆえに政府高官から活動の自由と引き換えに交際を強要されている、舞台女優のクリスタ。

そしてドライマンの一階下の部屋に陣取り、静かに二人の生活を盗聴する、シュタージの局員、ヴィースラー。

この三者の生活が、一人は相手の存在すら知らずに過ごし、一人はその人間を通して自分のやるべきことを見定め、またある一人は自分の道と周囲の状況に引き裂かれる。

*

この中で、主人公ヴィースラーは党に忠実なシュタージの局員なのだけれど、物語の中盤で彼は自分の理想が党の中には無いことに気付く。

その時に彼は盗聴監視用のヘッドフォンを通じて、ドライマンが弾くピアノ曲、『善き人のためのソナタ』を聴く。
(そのピアノスコアは、党の圧迫に耐えられず自殺した友人の劇作家からドライマンが受け取ったもの。)

そしてそこでおそらくヴィースラーは、何が悪いことなのか、何が善いことなのか、つまり『善い人』とは何かを、考えることになる。

*

例えばそのあと、自分のアパートに戻った際の、エレベーターの中でのシーン。

(ヴィースラーがエレベーターに乗り込んだ直後、バスケットボールを追ってエレベータに少年が乗り込んでくる。)


少年。――おじさんシュタージの人でしょ?

ヴィースラー。――シュタージが何か、知っているのか?

少年。――知ってるよ、悪い人たちでしょ?みんなを捕まえちゃうって、パパが言ってた。



あるいは、女優として活動できなくするとの党高官の脅しに屈して、女として扱われることが解っていながら党高官のところへ行こうとするクリスタと、監視員としての役割を離れ、それを止めようとするヴィースラーの、バーの中での会話。


クリスタ。――ずいぶんよく知ってるのね。クリスタ=マリア・ジーラントを。なら教えて。彼女は最愛の男を傷つける女だと思う?

(かすかに首を振るヴィースラー。)

クリスタ。――芸術のために身を売るかしら。

ヴィースラー。――芸術ならもうあなたは持っておいでです。そんな取り引きはよくない。あなたは偉大な女優だ。ご存知ないんですか。

クリスタ。――あなたは本当にいい方。


(日本語訳は僕の見た日本語版DVD(ASIN: B000PWQS3G、EAN: 4532318008479、販売元: アルバトロス)より)

悪い人間と、よい人間の間で揺れ動くヴィースラー。

ヘッドフォンを通して『善き人のためのソナタ』を聴いたヴィースラーは、今までヘッドフォンを使って生活の様子を聴いていたドライマンの部屋に、合鍵を使って足を踏み入れる。

部屋に入った彼は、ドライマンの部屋からブレヒトの本を持ち出し、自分の部屋で読む。

ブレヒトの、「Erinnerung an die Marie A.」(Memory of Marie A.)という詩。


ブルームーンの九月のある一日/静かにすももの木の陰で/青ざめた恋人を抱き締めた/腕の中の彼女は美しい夢/二人の頭上には夏の空/一片の雲が目に止まった。/白い雲、天高く、見上げるともう、消えていた。



(翻訳は、同じくDVDより。)

今まで信じていたものが失われたヴィースラーが読むのは、ブレヒトが失われた過去の恋を、青空に浮かぶ雲に託して歌っている詩。
(ブルームーンは、滅多にない/二度と来ないものを示す形容詞。)

この後ヴィースラーは、党ではなく自分の信じる信念に沿って動いていくことになる。
いわば、誰かにとってnett(=nice)な人間ではなく、善い人間、gut(=good)な人間であろうとして。

(そしてこの先も、映画は続く。)

*

他の場所でも一度書いたことがあるんだけど、以前、芸人の出川哲郎さんが、横浜映画専門学校(いまの日本映画学校)時代からの自分の歩みを喋っているのをテレビで見たことがある。

板前修業をさせられそうになったこと。尼寺で泣きながら「俳優になりたいんです」と訴えたこと。自衛隊の試験のこと。映画専門学校同期のウッチャンナンチャンたちと劇団を立ち上げたこと(座長は出川さん)。バラエティに出始めてからも俳優の道を捨てきれなかったこと。「ビートたけしのお笑いウルトラクイズ」で先輩芸人に一斉に突っ込まれたとき、泣くほど嬉しかったこと。

こういうことを笑いをとりながら、でも真剣に語っている出川哲郎さんは本当に格好良くて。

この映画を見ていたら、多くの困難を乗り越えながら、自分がなりたいものに近づいていった(そしてそれを少し恥ずかしそうに語る)出川哲郎さんの姿が思い出されてきた。

*

ピアノのシーンの後も、物語は続く。

この映画の監督、フロリアン・ヘンケル・フォン・ドナースマルクは、フランスの作家・ジョルジュ・ペレックが書いた「人生 使用法」 La Vie mode d'emploiを読んだことがあるのだろうか。

映画『善き人のためのソナタ』Das Leben der Anderenが監視/盗聴という行為を通じて異なる3人の人生を描いていたのに対して、小説『人生 使用法』は、集合住宅のそれぞれの部屋の登場人物の人生を辿る小説。

そしてまた、『善き人のためのソナタ』と同じように、おそらくはその人生の物語自体が物語の中で一つの作品として提示される、一種の額縁の構造が見て取れる。

(あるいはアメリカの作家、ポール・オースターの『幽霊たち』The Ghosts。主人公の探偵が依頼に従って、数十年に渡ってある人物を監視し、報告書を送り続ける話。)

それは例えば、谷崎純一郎の「春琴抄」の様でもある。佐吉の目を通して書かれた冊子「鵙屋春琴伝」を基にした、と劇中で書かれる小説「春琴抄」。

額縁の中に額縁がある、入れ子と変奏の構造。

(映画劇中のピアノのシーンを思い浮かべるとき、僕はむしろバッハの「ゴールドベルク変奏曲」が思い浮かんでしまう。)

*

この映画は、映画好きの芸人としてよく名前のあがる、江頭2:50さんが一番好きな作品として名前をあげている映画でもある。

芸人さんの仕事っていうのは、盗聴とは全く逆方向の仕事なんだろうと思う。

盗聴は、こちらのことを気づかせずに、相手の情報を吸収する行為。

お笑いは、見てる人がいるかどうかは自分からは分からないけれども、自分のしたことで幸せになる人がいることを信じて飛んだり跳ねたりする、そんな仕事。


家だったり、部屋だったり、箱だったり。
それを超えて、自分の道を歩んでいくことを、この映画は後押ししてくれている、そんなような気がする。




(追記。)あるいは、物理学。

今年は日本人のノーベル賞の連続受賞が話題になったけれど、学者さんの道も似たようなところはあるのかもしれない。
大学の頃、研究と論文というものが全く結び付かなくてよく考えてた。「なぜ自分が研究したことを発表しなければいけないんだろう?」って。
もちろん、「世の中の役に立てるため」っていうのは一つの答えではあるけれども、今回の梶田先生の研究(ニュートリノの振動によるニュートリノが質量を持つことの証明)の様に、直接的にはすぐに社会の役に立たない研究も少なくはないわけで。(しかも多額の税金が投入されている。)
贈与なんかと同じように、論文の提出を交換関係を軸に考えてみると、あるいは供儀の体系が当てはまるのかもしれないけれど。(それを貨幣として置き換えたものが(不完全ながら)論文の引用ポイントなのかな?なんて思ったり。)

最近、微分方程式を練習し直してみたら、これがすごく面白い。

科学の本、何か買ってみようかな。


nice!(5)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:

[海外詩]大詩人ユーゴーの、夕暮れから先の見つめ方。:ヴィクトル・ユーゴー『6月の夜』(Victor Hugo : Nuit de juin) [詩・小説]

平日に休みが幾つか取れたので、ヴィクトル・ユーゴーの詩を訳してみた。

ヴィクトル・ユーゴーの『Nuit de juin』(6月の夜)という詩。

*


Nuits de juin

L'ete, lorsque le jour a fui, de fleurs couverte
La plaine verse au loin un parfum enivrant ;
Les yeux fermes, l'oreille aux rumeurs entrouverte,
On ne dort qu'a demi d'un sommeil transparent.

Les astres sont plus purs, l'ombre parait meilleure ;
Un vague demi-jour teint le dome eternel ;
Et l'aube douce et pale, en attendant son heure,
Semble toute la nuit errer au bas du ciel.




6月の夜

夏、日が暮れ、花に覆われた平原に
花の香りは遠く漂い
目を閉じ、耳を少し澄ませて
ただ透明な眠けの中でまどろむ

星が澄み渡り、闇がだんだん濃くなって
薄い光が永遠のドームをぼんやりと染める
甘く薄暗い夜明けはその時を待ちながら
夜の間空の下をさまようのだろう




*

フランスの6月の夕暮れと、それに続くほの暗い夜を描写した詩。

前半では草原の中に日が暮れていく様子が描写され、後半ではまだ明るい地平線の付近を、夜明けに見立てて謳っている。

(フランスの6月だと、日が暮れても相当に明るさが残っていて、感覚だと夜10時くらいまでは夕闇が続いている感じになると思う。)


この詩は4行×2連のソネ(sonnet)。

各行が12音節から成り立っていて、アレクサンドラン(alexandrine)というフランス詩の典型的なリズムで出来ている。更に各行の12音節は6音節・6音節にきちんと区切られて読めて、つっかえつっかえでも声に出すととても気持ちがいいリズムになっている。

また脚韻もしっかり取られていて、
第1連:-rte /-nt
第2連:-ure / -el
の脚韻がabab/cdcd の型で続く、いわゆるシェイクスピア型の脚韻をもっている詩。

(ユーゴーの時代だとまだこういった形式をしっかりと守った詩が多い。)

*

ヴィクトル・ユーゴーは、「レ・ミゼラブル」や「ノートルダム・ド・パリ」で有名な作家であるとともに、この時代のフランスを代表する大詩人。

ユーゴーが生まれたのは1802年、ちょうどナポレオンが登場したころ。
20代、1820年代から発表した様々な詩によって世間から認められるようになったユーゴーはしかし、アカデミーへの選出、貴族への推薦、議員選挙、大作「レ・ミゼラブル」の執筆などもあって、詩集の出版を1940年代から10年ほど中断する。
その後彼は、復古王政、第二共和制を経て、第二帝政下でナポレオン三世に対して批判的な詩を発表していた彼は、1851年にフランスを出て、ベルギーからチャネル諸島へと渡って19年に及ぶ亡命生活を送ることになる。
1870年、普仏戦争でナポレオン三世が失脚したことを契機に彼は68才でフランスに戻り、晩年には大詩集「諸世紀の伝説」la Legende des sieclesを三回に分けて発表している。

僕が訳してみた「6月の夜」Nuits de juinは、彼が多忙になる前の1840年、ユーゴーが38才の時に出版された詩集「光と影」Les Rayons et les ombresの中に収録されている一節になる。

*

リズムの面でも風景描写の面でも、非常に美しい詩。

前半では夕暮れの中、花薫る草原でのまどろみが描かれ、後半では一転、明確になっていく空の星と地平の仄かな明るさを描いている詩。

この詩の中は"demi-"(半分)という言葉がよく使われるのだけど("On ne dort qu’e demi "(半分眠る=まどろみ)、"demi-jour"(半分の日の光=微かな明かり))、この単語に象徴されるように、この詩ではまさに、二つの状態の間の中間的な明るさが描かれている。

例えていうなら、1885年に83才で亡くなるユーゴーが、ちょうど人生の半分の地点に立って変化を見つめているような。

まず地上の花の香りの"un parfum enivrant"(酔わせる香り)という熱に浮かされたような描写と、天空の星の"Les astres sont plus purs"(星は澄み渡る)という、地上の花と天空の星の対比。

また、空の"le deme eternel"(永遠のドーム)という静謐さを感じさせる表現に対して、地上での"l’oreille aux rumeurs entrouverte"(耳を少し開けて音を聞く)という表現の対比。

その対比の中で、ほの明るい、中間的な明るさがずっと残る地平近くの明かりは"vague"(ぼんやりとした)、"pale"(薄い)、"en attendant son heure"(その時を待ちながら)、"errer”(さまよう)というようなはっきりしない形容詞で表現される。

ただしその地平の明るさは、次の日の朝に迎えに来る明かりにも擬されていて、むしろ仄かな期待をもってこの詩は終わる。

日が沈み、夕闇から星が見えてくるけれども、明かりはまたやってくる。

(ちなみにこの"l'aube"(夜明け)はフランス語では女性名詞なのだけれど、こういう表現を見ると名詞に性別があることを何となく羨ましく思う。)

実に絵画的な、美しい情景を描いた素晴らしい作品。

*

夕闇を描いた作品といえば、芥川龍之介の「羅生門」が思い出されるけれど、これは夕闇の中に星を見る詩であって、地平に次に昇ってくる明かりを見る詩。


この詩が「6月の夜」なのは、6月が一年で一番日が長い時期だからなのだろう。

(6月は一年12か月の折り返しでもある。古代の人は日の長さを基に一年の始まりと終わりを決めたんだろうか?)


年齢的には、僕もそろそろ若いとは言えない年代に差し掛かっている。

夕暮れを迎えたときに、こんな風に夜を見られたら、すごくいいよね。



nice!(11)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:

[社会]安保法制に対する海外の反応。 [社会]

7月に一連の安保法制案が衆議院を通過した際、海外ニュースサイトで大きく記事が出ていたので、反応が気になって各紙のコメント欄を訳してみた。

訳したのは、Guardian、Al Jazeera、Le mondeの三紙。できれば中国や韓国やロシアの記事も見たかったけれど、コトバの問題で断念。

投稿者の国籍が分からないので偏りがないとは言えないけれど、とりあえず自分の政治的フィルターが入らないように抜粋してみた。

(公正を期すために、抜粋する場合には記事を取得した時点での「oldest」(古いもの順)で抜き出すことにした。(レスが何回も付いたものでも議論の途中までしか抜粋していないため、議論が追えないものもあるので注意。))

また、8/24時点で法案はまだ参議院で審議中なのだけれど、記事はどれも「法案が衆院を通過」、あるいは「法案が委員会を通過」という内容を単純に<<法案が通過>>というようなタイトルにまとめているため、ほとんどの投稿者が「安保法案がほぼ成立した」と受け止めてコメントしていることを付記しておく。

*



英Guardian紙:“日本で70年ぶりに兵士を海外に送ることができる法律が成立“
Japanese law could send soldiers to fight abroad for first time in 70 years
http://www.theguardian.com/world/2015/jul/16/japan-security-bills-through-lower-house-despite-protests
guardian,2015/07/16 07.12 BST


(記事内容は省略)

※コメントは174もあるのでコメント順に抜粋。 スマホで抜粋されて表示されたものを出している。


centerline 16 Jul 2015 13:29

「日本で70年ぶりに兵士を海外に送ることができる法律が成立」
アメリカは帝国を維持するための傭兵をさらに必要としてるってことかな?


DSteel 16 Jul 2015 13:44

彼らは中国には兵士を送らない方に賭ける。


↑DSteel 16 Jul 2015 13:45 >>DSteel

もう一度やるかな。


↑ centerline 16 Jul 2015 13:56 >> DSteel

アメリカが、彼らを戦場へ送るかどうかにかかっているね。


Graihwing 16 Jul 2015 13:56

外国人恐怖症の伝統を払拭しようとしている、戦争犯罪人の孫、安倍晋三。


↑SakurakoY 16 Jul 2015 14:34 >>Graihwing

馬鹿じゃないの。


Moriya 16 Jul 2015 14:09

日本では有権者が、議員を辞職させるツールや力を持っていないんだよ。
もし議員が我々の声に耳を傾けないなら、それは議員ではなく、独裁者だよね。


↑SakurakoY 16 Jul 2015 14:30 >>Moriya

リコールはできるよ。あなたが本当に日本の投票の権利を持ってるならね。


↑mackythehurricane 16 Jul 2015 15:08 >> SakurakoY

いや、日本の法律はそうなってない。リコールできるのは地方の首長で、議員はできないよ。


Truthsandlies 16 Jul 2015 14:33

中国の封じ込めみたいなもんだね。


FugitiveColors 16 Jul 2015 14:39

3世代か4世代の平和主義の時代のあと、クソ共を殺したくなったって訳だ。
その代わりに、マリオの新しいのをリリースするってのはどうかな。


Steff Clarke 16 Jul 2015 14:52

それであいつらは、いつになったら戦争が終わってないって気付いてジャングルから出てくるんだ?


martinusher 16 Jul 2015 15:03

「台頭する中国の」。
(訳注:guardian記事本文:『安倍首相は、ワシントンから歓迎されている、台頭する中国に対応するための大胆な安全保障の姿勢を示した。』("Abe says a bolder security stance, welcomed by Washington, is essential to meet new challenges, such as those from a rising China.")からの引用。)

悪いけど、中国は「台頭する」ではなく、「既に台頭してる」なんだ。中国は海外進出によって大きな力を得て、僕らがその助けをしてその地位を得たんだ。僕たちの企業に向けて安価な労働力と、巨大な利益とをちらつかせて、僕らはそれに食い付いたんだよ。

日本国を傭兵として契約しようっていうのは、いいアイデアじゃないね。日本にはまだ古き良き、"Greater East Asia Co-Prosperity Sphere"(訳註:大東亜共栄圏)を覚えている人間がいるからね。
彼らの目には日本は、高品質の自動車や電子製品の供給者としては見えてないんだよ。ミリタリーなゲームの中へ回帰することは幸せなことではないだろうけどね。




*



カタールAl Jazeera:"日本で軍隊の役割を拡大させる安全保障法案が通過"Japan passes security bills to expand military role
http://www.aljazeera.com/news/2015/07/japan-passes-security-bills-expand-military-role-150715073741421.html
al jazeera 2015/07/15 09.59 GMT


(記事内容は省略)


Sidney Sridhar -13 days ago

驚くことかい?中国がアジア太平洋の全ての国に脅威を与え、日本は明らかにナーバスになっているんだから。
新しくミリタライズされた日本が出てくるのは、単純に自然なことだよ!


↑Harry_the_first -13 days ago

ソ連―いまのロシアが千島列島で抱えていたのと同じで、中国は日本と領土問題を持っているからね。ソ連のは北海道から数キロメートル離れているだけで、日本にとっては釣魚島より遥かに重要度が高い。
ソ連は日本とは公的に敵対関係にあり、この2国は第二次大戦後、1956年まで平和条約を結ばなかったし(訳註:1956年に交わされたのは日ソ共同宣言(declaration)であって条約(treaty)ではない。)、ソ連は日本にある米軍基地を核の目標に定めていて、戦略爆撃機と弾道ミサイルを搭載した潜水艦を日本の周りを日常的に周回させていたんだ。 ソ連とは基本的に貿易関係はなかったし、(ロシアは)中国と日本の間の緊密な経済的関係によって、小さく見積もられているんだけどね。
(訳註:日本とソ連の間にも貿易関係は存在していたので、前半部は投稿者の思い違いか。)
君は、目と鼻の先にソ連がある状態で、平和9条で冷戦を生き抜いた日本が、今は中国の脅威にさらされてると言ってる?
君は過激な右翼に洗脳されてるんだね。


↑Steve Foster -12 days ago

今が2015年だってわかってる?
現代の戦争の中で、侵略された側が侵略者からみて100パーセントの犠牲者とか平和主義者として扱ってもらえるなんて、まずないよ。 侵略者側の歴史が、よほど征服で血塗られてたりしない限りね。ますます(侵略者側の)怒りを引き起こすだけさ。
君の左翼的な見方は、事実を見えなくしてるよね。少なくとも2つの大きな地域で、中国は望まれていない、長期の占領をしてるってこと、 そして他の隣の国と摩擦を引き起こして、大きくしてるっていう事実を。 (訳注:下記は「証拠」として投稿者が貼っていたURL。)

https://www.foreignaffairs.com/articles/china/2015-03-19/chinas-double-digit-defense-growth
http://nationalinterest.org/feature/face-china-vs-asean-the-south-china-sea-beyond-12000


↑Thein Maung - 13 days ago

歴史は変わらず繰り返されるけれど、問題は、近代史の中での侵略者が、東南アジアや太平洋の国々に脅威を与えている中国ではなく日本であったということで、我々が順序を取り違えてしまうということだ。
そして何も分かってないアメリカは、いつもの通り間違った方を援助してしまうか、ニッポン(Nippons)を支持することで、想定できる問題をゆっくりと作り出してしまうかのどちらかになるんだ。
(訳註:Japanではなく"Nippons"と書いているのはおそらく、日本の愛国主義者のことを指しているかと思われる。)


Otilrac Olleb Nuhj - 13 days ago

自分の国を自分で守り、他の国に依存しないというのは良いことだよ!
だけど、そのときが来たら日本の同盟国はみんな共に戦うよ!
フィリピンは共にある・・・!!(PHILIPPINES WITH YOU..!!!)


Lester Rodriguez - 13 days ago

今後50年で日本はどんな軍隊を持つんだろう?日本はセックスレスと高齢化の国だよ。誰が国を守ることになるんだ?ロボットかな?
お願いだ、納税者のお金を無駄にしようとするなんて、なんてもったいないんだ。本当くだらない。


Abdirahman Abdi - 14 days ago

彼らにとって良いことだね。


Christo - 14 days ago

興味深く見てたイベントが日本で終わったね。
そう、彼らの軍は特に中国と北朝鮮に注意を払う必要がある。もちろん、切られたカードだけを見るだけでは不十分なのは承知してるけれど、日本の軍事化はまだ中国や北朝鮮を監視してるだけだし、日本にはそうする権利があるんだよ。
歴史修正主義や、靖国への参拝や、心のこもってない中途半端な謝罪とか、地域に波風は立ててるけれども、しかし、そうは言っても、日本は自らの防衛のためには、より積極的であることと、その時々に主導権を握っていく必要があるんだ。
憲法を書いたアメリカは、日本の軍隊に厳しい制限を課して、日本の軍国主義文化を和らげる助けをおそらくはしたけれども、アメリカは中国の力を抑え、北朝鮮の首には縄を付ける必要がある。今後ますます、日本はその助けになるよ。




*



フランスLe monde紙:“日本で安倍首相が安保法案の通過を模索“
Au Japon, Abe cherche a imposer sa loi sur la defense
http://www.lemonde.fr/asie-pacifique/article/2015/07/17/au-japon-abe-cherche-a-imposer-sa-loi-sur-la-defense_4686970_3216.html
le monde ,17.07.2015 a 10h54


(記事内容は省略)


PIERRE-MARIE MURAZ il y a 2 semaines

日本では、安倍は防衛のための法律を成立させることを模索している!・・・49条3項ではなく、投票で可決するんだね!
(訳註:フランス憲法49条3項は、内閣不信任を掛けて法律を通過させる条項を指す。)

日本が海外へ干渉できる軍を持つことになる、・・・はスキャンダルだ!(,s'est un scandale !) イランでは、これは人道に照らしてもいいことだし、、とっくにやってることだよ。


PIERRE-MARIE MURAZ il y a 2 semaines

訂正:これはスキャンダルだ!(c'est un scandale !)




*



フランスLe monde紙:"日本が平和主義から一歩踏み出す"
Le Japon sort de sa posture pacifiste
http://www.lemonde.fr/idees/article/2015/07/18/le-japon-sort-de-sa-posture-pacifiste_4688342_3232.html?xtmc=japon_securite&xtcr=10
LE MONDE | 18.07.2015 a 10h27 ? Mis a jour le 18.07.2015 a 11h04


(記事内容は省略)


ROLAND GUERRE il y a 2 semaines

これは良くない選択。急展開の混乱の中にいる日本の女性たちが9条を守ろうとしている姿に、市民の闘志(solidarite)を感じるよ。


jfhm il y a 2 semaines

南シナ海における西沙諸島と南沙諸島の局面に日本は関係はしていないことを考えると、違和感を覚えるな。(日本は1951年に領土としての主張は放棄しているしね。)
日本と中国の間で唯一オープンに行われている争いは、中国の大陸棚と、日本の排他的経済水域の、油田の利権を巡る主張といった経済上のものだね。
尖閣諸島は、いつ中国のものだったというのだろうね。日本には1895年に組み込まれているんだけど。


CHRISTIAN il y a 2 semaines

内モンゴルはいつから中国になったんだ?
チベットはいつから中国になったんだ?
日本の不名誉な過去と、中国の今の露骨な戦略を 切り分けるのは難しい。ともかく、中国が、穏やかな経済的争いの姿勢ではなく、征服と植民地化の積極的な姿勢を見せているのは明らかだ。 そのことがあるから、隣国はみんな、大国の欲求を満たす訳ではなく自らを守るために武装化しているんだよ。


jfhm il y a 2 semaines

クリスティアン(訳注:Christian、前の投稿者)には賛同できない。
チベットは皇帝フビライ・カーンによって、13世紀には中国だったし、最終的に、18世紀の清の時代には国際連盟が中国の一部だと認めているんだよ。内モンゴルは、1644年から1912年までの清王朝において公式に国の一部だったしね。

中国で唯一戦火が開かれたのは、1979年の中越戦争(5万6千人が亡くなっている)までさかのぼるよ。
戦争がなかったのは、問題を抱えてる沖縄基地や、スービック基地、クラーク基地、再開するジェネラル・サントスなんかのアメリカ軍の存在があるんだけどね。


JM Lustukru il y a 2 semaines

日本が「平和主義者」かどうかによらず、高齢化社会を支えるために、勢力範囲内で経済的な優位勢を保っていかないと日本はやっていけないんだよ。
中国の台頭は、今まで日本が優位だった地域での市場を脅かしてる。中国の巨大な債務国でもあるアメリカは、他にも対処が必要な案件を持っていて、だから日本のコングロマリットは警戒の態勢に入っているんだ。


Lu de Tokyo il y a 2 semaines

「平和主義」を訴えるキャンプに見える日本の慎みやかさと、自ら自分の急所を噛むような、シアンスポの匂いが鼻につく見せ掛けの平等主義 の両方によって、この記事は、あることを僕たちに予感させる。
(訳注:シアンスポ(Sciences-po:パリ政治学院)卒業生でイラク戦争に反対していたジャック・シラク大統領とドミニク・ド・ビルパン首相のことを言っていると思われる。)

「コミュニズム」を掲げる傲慢な隣人に対して、 アメリカ人たちの連合が戦端を開く日が来て、 その友人の日本が自らの軍隊の動きをすべてフォローすることができなくなり、日本が1932年ないしは1937年の状況に回帰する日が来るということを。

世界は変わった。それは認めるよ!だけど誰がこのシナリオを笑えるんだ?安倍は危険でかつ「紳士的な」操り人形だよ!


Transcendz il y a 2 semaines

一方で、中国は内外で戦争ができるように法的な準備を進めている。もちろん僕は、日本が同じ(極悪な)過ちを起こさないことを願っているけど、だけどこの、他の国よりも大きい隣人っていうのは、ほとんどのアジアの国にとっては扱いに困るものなんだろうねぇ。


Renee Dulees il y a 2 semaines

中国の国家主義が再燃する可能性はひとまず措いておいて、まずは日本がこの地域での火種を取り除く―つまり1930年代から1940年代に他国に大きな被害を与えたことを明確に認識し謝罪する―のが、良いと思うよ。
偉大なる宮崎駿監督が最近、記者発表の際に、多くの人を前にしてそう思い起こしていたよ。(訳注:7/13の宮崎駿監督の会見のことを言っているものと思われる。) とは言っても、平和の勝ち取り方を知っているということは、ほとんど手に入らないギフトなんだけどね。
悪いことは、彼の国が大きいってことなのさ。

perplexe il y a 2 semaines

参考にできるものはいま無いけれど、 僕の記憶では日本謝罪してたはずだから、君が求めているものはもう満たされてるんじゃないかな。天安門事件と文化大革命への憎悪に対して中国が謝罪するのを人々は今日も待っているよ。

善良な中国、邪悪な日本、はは。
日本はノーマルな国になりはじめているよ。 戦後70年たってて、これの何が不自然なんだい?

敗戦国だからって永遠の屈辱が与えられているわけじゃないんだよ。


R.Dulees. Des formules indirectes+tordues "a la turque" mais aucun chef de gouvernmt n'a prononce il y a 2 semaines

言い訳の言葉ばかり。

君が全然日本のことを知らないのでなければ、言い訳がなされていると主張する日本人は多いっていうことを知ってるはずだし理解もしてるはずだよ。
(宮崎監督の言葉が証拠だよ。最新のもの。)

その作品は我々に、歴史の暗い側面である、最悪に狂信的な兵士を賛美する場所への安倍首相の訪問を思い出させるよ。(訳注:靖国神社への参拝を言っているものと思われる。)

そういう罪を認めることは恥ではなく、成長の糧になり、全ての悪い言い訳を封じ込めることになるのにね。


Gerald il y a 2 semaines

変な感じ。日本は「妥協の姿勢」を見せないので非難され、一方で中国は全ての方面に進出してる。それも強く。
とは言うものの、フランスとイギリスがミュンヘンで善き「妥協の姿勢」ってのをやっちゃったことがあるしねえ。


Pierce il y a 2 semaines

そう・・・世界中が、最近ドイツと日本が調子を上げているってことに気付いてきた・・・

もう戦後70年にもなって何を求めてるんだ?1945年当時の主要な人間は今はもういないんだ。
戦争とか、収容所とか、虐殺とか、これらはみんな古い時代遅れのストーリーなんだよ。
それが過去のもの(時代遅れ)だっていう証拠に、ツイッター上でさえ、そんな言説は見ないからね!




*

日本の置かれている状況に理解を示す投稿もあり、一方で日本の暴走を警戒している投稿も見られる。

日本に対して第二次大戦での侵略者のイメージが付きまとっているのは、やはり仕方がないことなのだろうと思う。(向こうの教科書にそう書いてあるのだろう。)

*

PKO協力法のときも、日米ガイドラインのときも反対の声は多かったけれども、今回はどうなるのだろう。

与党提出であろうとも野党提出であろうとも、示された課題を解決する法案はいずれきちんと通してほしいと思う一方で、筋はきちんと通してほしいとも思う。







(2015/09/04 11:35 一部を修正加筆)
(2015/09/04 15:12 スマートフォン上での表示不具合を修正)
nice!(7)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:

[詩]暗闇に白く光る情熱と降りていく不安定さと。:中原中也「サーカス」 [詩・小説]

赤ちゃんを抱くときに、自分が知ってる歌をいろいろ歌ってみている。

抱いてるときはリズムをつけていろんな歌を歌っていればいいんだけど、布団に寝ている赤ちゃんに「だー」とか「にゃー」とか擬音語であやしているうちに、最近はNHKの「日本語であそぼ」の野村萬斎さんの真似をして、たとえば杜甫の「春望」のとか落語の「寿限無」を思いっきり抑揚をつけて語りかけてみたりしている。

(「城春にして草木深し」の「ソーモク」のところとか、「寿限無」の「ポンポコピーの、ポンポコナーの」の部分とか、結構喜んでくれる。目をそらすと途端に興味を失うんだけど。)

そうやって擬音語を交えて話しかけながら、中原中也の「サーカス」なんかを話しかけてあげると、やっぱり「ゆあーん、ゆよーん」の部分で一番興味を引かれる顔をしてくれるんだけど、この詩を改めて見直してみるとすごくいい詩だと思うので、紹介してみる。


*

サーカス

幾時代かがありまして
  茶色い戦争ありました

幾時代かがありまして
  冬は疾風吹きました

幾時代かがありまして
  今夜此処での一と殷盛り
    今夜此処での一と殷盛り

サーカス小屋は高い梁
  そこに一つのブランコだ
見えるともないブランコだ

頭倒に手を垂れて
  汚れ木綿の屋蓋のもと
ゆあーん ゆよーん ゆやゆよん

それの近くの白い灯が
  安値いリボンと息を吐き

観客様はみな鰯
  咽喉が鳴ります牡蠣殻と
ゆあーん ゆよーん ゆやゆよん


     屋外は真ッ闇 闇の闇
     夜は劫々と更けまする
     落下傘奴のノスタルヂアと
     ゆあーん ゆよーん ゆやゆよん


(詩集『山羊の歌』より)

*

夜の闇の中、熱を帯びるサーカスの中の空中ブランコを、自らの心象に重ねている詩。

「戦争」って言葉が入っているので陰鬱な詩だと言われそうだけど、全体を通した印象だと必ずしもそうはならない。

それはたぶん、この詩の全体で採用されている七五調(七音が先に来る形式)から来ているんだろうと思う。

これが、五音が先にくる五七調(「小諸なる古城のほとり」とか「からまつの林を出でて」とか)だと、一行の最後に詠嘆や郷愁を残すことになるけれど、これが、七音が先にくる七五調(「まだ上げそめし前髪の」とか「君死に給う事なかれ」とか)だと、一息に走る七音が先にきていることから、情熱とか欲動が感じられることになる。
(もちろん最後が体言止めか言い切りかでも変わってくるんだけど。)

つまりこの詩は、推進力をもって闇の中の遊戯を眺める詩、ということになる。

*

この詩は、4つの部分から成り立っている。一つ目は、「幾時代かがありまして」が反復される第1~3連。二つ目以降は、「ゆあーんゆよーんゆやゆよん」という擬音語で区切られている4~5連/6~7連/第8連。

部分分けすると次のようになるんだけれど、これを各部分について一つずつ考えてみる。

*


幾時代かがありまして
茶色い戦争ありました

幾時代かがありまして
冬は疾風吹きました

幾時代かがありまして
今夜此処での一と殷盛り
今夜此処での一と殷盛り(1)

サーカス小屋は高い梁
そこに一つのブランコだ
見えるともないブランコだ

頭倒に手を垂れて
汚れ木綿の屋蓋やねのもと
ゆあーん ゆよーん ゆやゆよん(2)

それの近くの白い灯が
安値いリボンと息を吐き

観客様はみな鰯
咽喉が鳴ります牡蠣殻と
ゆあーん ゆよーん ゆやゆよん(3)


     屋外は真ッ闇 闇の闇
     夜は劫々と更けまする
     落下傘奴のノスタルヂアと
     ゆあーん ゆよーん ゆやゆよん(4)


*

(1)で終わる第一の部分は、見てわかる通り、七五調のリズムにさらに「幾時代かがありまして」の反復が重なり、心地よいリズムを生み出している。ここで、反復される「幾時代かがありまして」以外の部分に注目して頭の一音を見てみると、それぞれの母音が「茶色い」の頭のア、「冬は」のウ、「今夜」のオ、となっていることがわかる。

僕の個人的な感覚かもしれないけれど、ア・イ・ウ・エ・オという流れには下に降りていくような感覚があって(逆の流れで口に出すことが滅多にないのと、「ア」というのが最も口に出しやすい音の一つであることが影響していると思う)、「ア」から「オ」に行くにしたがって、地上にいて空が見えている状態から、地下や、過去や、心の奥の方に降りていくようなイメージがあるように思う。

加えてこの3つの行は、「茶色い戦争ありました」という過去の時代感覚から「冬は疾風吹きました」という過去の肌感覚、そして「今夜此処での一と殷盛り」という現在進行形での情景説明というように、カメラのピントがぎゅっとフォーカスされていくような流れがあって、先に言った音の感覚と併せて、反復のリズムの中、ゆっくりと何かの階段を降りていくような印象が感じられる。

(余談だけど、視線が凝縮されていくいくという点でいえば、歌手の「ダ・カーポ」が歌っていた「宗谷岬」の歌詞の最後「流氷とけて/春風吹いて/ハマナス揺れる/宗谷の岬」を僕は思い出す。遠くから近くへ、水平線から足下へと視点が移って視線が定まっていき、最後に自分のいる位置を確認するようなイメージ。)


この詩に現れる「茶色い戦争」がいつの戦争を表すのかはわからない。
満州事変から始まる中国大陸での戦争を表すという話もあるけれど、詩集『山羊の歌』の出版が昭和9年(1934年)、この詩の初出が昭和4年(1929年)で、満州事変が始まったのが昭和6年(1931年)だから、中国大陸での戦争とするには少し無理が出てくる。日本と中国との戦争というよりはむしろ、中也が幼い頃に風聞に接している第一次大戦―「戦争を終わらせるための戦争The war to end all wars」と言われた戦争―が念頭にある気がする。

(告白すると、僕はこの詩を最初に見たとき、頭の中の勝手なイメージで「茶色い戦争」を太平洋戦争のことだと思ってしまって、この詩は戦後に書かれたものだとずーっと思っていた。)

*

その次の(2)で終わる部分は、この詩の舞台となる心象風景を描いた部分。(1)の部分を序奏とすると、ここはいわば詩の提示部にあたる。サーカスのテントの高い梁から下げられた、大きく揺れる空中ブランコが描かれる。
リズムの面からいうと、この部分が3行・3行の二つの連で構成され(次の部分が2行・3行、最後はリズムの面では2行+2行)、「ゆあーん ゆよーん」の行が最初に現れる部分であることから、以後の詩の基本リズムが示される部分と言える。

(「見えるともないブランコだ」というのは、高いところで大きく揺れる空中ブランコのロープがはっきりと目にとらえられないとも読めるし、実際にはそこにはないブランコを作者が心の目で見ているとも読める。)

また母音の面からいうと、行頭の母音は(1)と同じように降りていくイメージを喚起しているように見える。特に1行目「サーカス小屋は高い梁」に含まれるア音の多さ、5行目「汚れ木綿の屋蓋(やね)のもと」のオ音の多さはブランコの高さと小屋の空間を感じさせる。(あるいはそれぞれの行の行頭から行終わりへの母音の流れなどを見てみても面白い。)

この部分の中で最も目を引くのは、これ以降この詩の中心的なリズムを担う「ゆあーん ゆよーん ゆやゆよん」の一行だと思う。
この詩は前述のように、ここまで七・五を基本とした七五調できっちりと統一されているけれども、ここで出てくるブランコの動きを象徴する「ゆあーん ゆよーん ゆやゆよん」の一行は八・五で構成されていて、中に挿入された空白もあり、ここまでの七五調のリズムからは少し浮かび上がってくる。
この感触は例えば、この部分のそれぞれの連の3行目「見えるともないブランコだ」・「ゆあーん ゆよーん ゆやゆよん」の行が風景描写を形容する行であってそれぞれの連の中で意味の面からもちょうど「ぶらさがる」ような構造になっていることにも繋がってくる。
詩の情景を提示するこの部分は、音数の面と母音の印象、それにこの2行の置かれた位置から、この詩の主題である「ブランコ」の姿がぼんやりと浮かび上がってくる構造になっているように思う。


*

(3)で終わる部分は、比喩が駆使されたこの詩の核心部分。音楽でいうと、ちょうど展開部にあたる部分。
上を見上げて空中ブランコを追う観客の視界の中でランプの光が長い光跡を残している。視線が一方向に固まっている観客はまるで鰯のようであり、息を呑む音がごくりと牡蠣殻をすり合わせたような音で聞こえる、そんな情景。

リズムでいうと、前の部分の3行/3行から前半一行が削られた2行/3行の構成になり、リズムは保ちつつも2連目の「ゆあーんゆよーんゆやゆよん」にむけて加速していく部分になる。また、「咽喉が鳴ります牡蠣殻と」では音数がとうとう八・五になり、この部分の最後にぐらりとした印象を残す。

また母音の面でいうと、一行目ではそれまでのア音に代わってイ音が多く使われるようになり、最後の行ではオ音が中心的な役割を果たしていて、この部分では再び「降りていく」イメージが提示されているように見える。



ここでの鰯と牡蠣殻の比喩は、僕が大好きな、本当に素晴らしい比喩。この詩を読んだ誰もがそうだと思うけど、観客の息を呑むシーンが見事に描写されていて、この部分だけ何度も声に出してしまう、本当に魅力的なシーンだと思う。

ここでの「白い灯」は、詩の最初の「茶色い戦争」の茶色のイメージと、詩の最後に出てくる闇の黒いイメージに挟まれて、サーカスの明るさをより引き立てる。

茶色と黒(闇)に挟まれた白い灯。詩全体でいうと、茶色い空気をくぐり抜けていった先に真っ黒な夜の闇があり、その中の煌々と白い灯で照らされた部分があって、そこで空中ブランコが行われている、そんなイメージ。

これも僕の個人的な感触になってしまうんだけど、鰯や牡蠣といった海の中のものというのは陸の上のものに比べて、現実の下の方に隠されているもの、というようなイメージを僕は持っている。下といっても、土の中のように熱を持った抑え込まれた領域というよりは、もっと静的な、いわば停止した過去や記憶が浮かんでいる領域のようなイメージ。もちろん直接的には鰯や牡蠣は観客の様子を比喩的に描いたものではあるけれども、鰯や牡蠣が下に居る中、白い光の溢れる空域を空中ブランコが自在に飛び回る情景というのは、詩人自身の言葉の芸術をサーカスとして描いているものに僕には見えてならない。(白い灯が、擬人化されて描かれているのも、ブランコを祝福するためのように僕には感じられる。ちょうど天使のラッパから福音が吹きかけられるような。)もちろんそこには、「ゆあーんゆよーんゆやゆよん」といった音の感触が表す通り、不安さ、あるいは不安定さがつきまとうものであって、その底知れぬ危なっかしさと不安定さがむしろこの詩の(というか空中ブランコの)本質なんだろうけれども。

*

(4)はこの詩の最深部。
真っ暗な夜の闇にサーカスの灯りだけが浮かぶ中、サーカスの天幕とそこからぶら下がるブランコを落下傘(パラシュート)に見立てて描いている。音楽でいえばコーダでもあり、また再現部にもあたる部分。(なぜ再現部にあたるかは後述する。)

(2)の部分が3行/3行、(3)の部分が2行/3行と分けられていたのが、この部分はとうとう4行の一つの連にまとめられ、この部分全体が「ゆあーん ゆよーん ゆやゆよん」に向けて収束された感覚になる。

リズムの面では、最後の「ゆあーん ゆよーん ゆやゆよん」を含めると音数は八・五/八・五/七・七/八・五となり、詩前半部分の七五調から比べると逸脱がさらに増し、リズムの定まらない、安定しない感覚を残して終わっている。

一行目でわざわざ「闇(くら)」という言葉が三回も使われているのは、これは二行目の「劫々と」に受けられている。

「劫々と」。「劫」を重ねている訳だから、おそらく永遠に、というような意味合い。(この時代の漢字の知識がちょっと追いつかないけれど、「劫」という漢字だと僕は「寿限無」の「五劫の擦り切れ」といった言葉が連想される)、「真っ闇 闇の闇(まっくら くらのくら)」と言葉を重ねた上に、さらに永遠のイメージを放り込んで、サーカス小屋の外の夜が永遠に続くことを表している。

また、「落下傘奴(らっかさんめ)」は詩全体を貫く上下のイメージ―特に落ちるイメージ―と重なり、サーカスの中の空中ブランコの遊戯が白い灯の中で降下していく情景を喚起する。

(「落下傘」に自分を卑下する言葉「奴(め)」が付いているのは、2行目が「更けまする」と歌舞伎のような言葉遣いにしていることに対応して、この詩のイメージを更に物語りの額縁に括ろうとしていると読める。)

また最後の「ノスタルジア」はもちろん郷愁という意味だけれども、これは過去形で書かれた(1)の部分(特に「茶色い戦争」の部分)を思い起こさせて、最後の部分からもう一度最初に戻り、詩全体が連環するようになっている。



この部分で特徴的なのは、行の始まりが何文字分か字下げされていることだろうと思う。これは、縦書きで書いたときに「下がっていく」印象を与える視覚的効果もあるだろうけれども、他の部分と同じようにこの詩の音やリズムの面に注目して考えようとするときに、この空白をどのように扱うか?は大きな問題となってくる。

この4行の字下げをどのように音読(あるいは黙読)していくかについては、色々な答えがおそらくあると思うけれども、誠実にこの字下げの部分も含めて音読するためには、「読まれない文字がこの空白に入っている」ものとして読むのが最も適した読み方になると僕は思う。それも、後に続く音が八・五、もしくは七・七であることを考えると、前に付ける音は五音の言葉が想像されるべきだと僕は思う。(それがどんな言葉かは分からない。)

ここで、本来充てられるはずだった五音を空白に置き換えてこの部分を読んでみると、詩の最後に安定するはずだった行はむしろ不安定さが強調され、安定から外れて揺れ動く、まさにこの詩全体を象徴する印象でこの詩は閉じることになる。

*

茶色い過去の何かの先には真っ暗な闇があり、そこに浮かび上がる白い灯の中、遊ばれる空中ブランコ。

まるで夜の闇の中、暗闇で形成された火山の火口が白く光っていて、その中に揺れながらパラシュートで降下していくような。

あるいは不安と危なっかしさをも纏いながら、鰯や牡蠣を眼下に見て自由に遊ぶ冒険者のような。

(不安定さに揺れ動きながら白い灯の中、降下していくパラシュートは、何か新しい世界に入る情景を表しているようにも見えるし、詩人が出会った言語の芸術の遊びそのもののようでもある。)

序奏の部分から詩の主題を提示する部分、比喩を駆使した中核の部分、そして最後の揺れ動きの部分まで、考え抜かれた隙のない詩。

作者はたぶん、この形にたどり着くまでに何度も何度も何度も読み返して言葉を入れ替え、詩を磨いていったのだろうと思う。
日本語の音の面でも、リズムの面でも行立ての面でもイメージの連繋の面でも、本当に色々な仕掛けがあって、本当に面白い、本当にすごい詩。

*


空中ブランコの歌といえば、僕はロックバンド「SEKAI NO OWARI(世界の終わり)」が歌っている「サーカス」という歌を思い出す。

見上げるような高いところでの空中ブランコっていうのは、気持ちいいものなんだろうと思う。

自分だったらやってみたい気もするけれど、もしうちの娘が空中ブランコをやりたいって言い出したら、僕はたぶん止める、ような気がする。

ふむ。とりあえず歌は歌ってあげようっと。



nice!(9)  コメント(2)  トラックバック(0) 
共通テーマ:

[海外詩]ヴァレリーの透徹した詩。:ポール・ヴァレリー『失われたワイン』(Paul Valéry:Le Vin perdu) [詩・小説]

2か月前に女の子が生まれて、父親になった。

いま僕の奥さんは赤ちゃんと一緒に実家にいて、僕は週末のたびに車を走らせて娘に会いに行っているんだけど、つまりは期間限定の一人暮らしになってしまっている。

つかの間の平日の夜の空いた時間に、なんとなくヴァレリーの詩を訳してみたら、これが本当に考え抜かれた詩だったので、ここにあげてみようと思う。

『失われたワイン』。自分が捨てようとしている何かについて謳った詩。

*

Le Vin perdu

J’ai, quelque jour, dans l’Océan,
(Mais je ne sais plus sous quels cieux),
Jeté, comme offrande au néant,
Tout un peu de vin précieux...

Qui voulut ta perte, ô liqueur ?
J’obéis peut-être au devin ?
Peut-être au souci de mon cœur,
Songeant au sang, versant le vin ?

Sa transparence accoutumée
Après une rose fumée
Reprit aussi pure la mer...

Perdu ce vin, ivres les ondes !...
J’ai vu bondir dans l’air amer
Les figures les plus profondes...



ある日、海の中へ
(しかしもはや何処かはわからない)
僕は投げ捨てた、虚無へ差し出すように
ほんの少しの、すごく大切なワインを・・・

失うことを喜ぶ人間などいようか、酒よ?
僕はもしかして預言者にでも従ったのか?
もしかして僕の心(心臓)が惑っているのか?
血で考え、ワインであふれる僕の?

ピンクの靄が立ったあと、
海は取り戻した。変わらず純粋な、
そのいつもの透明性を・・・

ワインは失われ、波は酔い狂う。
僕は見た、最も深淵な造形が
苦い空気の中に跳躍していくのを・・・


*

何かを捨てようとしている自分の状況を冷静に見つめた詩。

捨てることで何が起こるのかまですべてわかっていて、その上で捨てようとしている、そんな瞬間を描いた詩。


この詩にうたわれているワインっていうのは、自分の血ーつまり、詩そのものなんだろうと思う。

ワイン(le vin)から血(sang)と心臓(心、cœur)が想起されて、それが海に流される。海はそんなことではびくともしないが、流されたワインは、とてつもなく深い(le plus profondes)被造物(figure)を生起させて飛び去っていく。

詩の中で、血と繋がるワイン(ce vin、le vin、de vin)は預言者(devin)と響きあって、自身の情念を象徴させているようにも読める。

また、第三連で海が取り戻す透明性(transparence=trans-parent)は第四連の海(la mer=母親mèreと発音が同じ)と連環して、ここで見ている海の深さを感じさせる。

また、海に対してすり抜けるように何かが跳躍していく最後の場面では、造形物(figure)に掛けられている形容詞profondes(深い)という単語はむしろ海と繋がりあい、奇妙な安定感をもたらしているように見える。

*

この詩の作者、ポール・ヴァレリーは、1871年生まれのフランスの作家、評論家、詩人。

1895年の『レオナルド・ダ・ヴィンチの方法序説』に始まる数多くの批評や評論を発表し、その緻密な分析と分野の幅広さから、ヨーロッパにおける最高の知性とされた人物。

(日本では、1920年に発表された長詩『海辺の墓地』Le Cimetière marinの一節"Le vent se lève! . . . il faut tenter de vivre!"(風が吹く!・・・生きてみなければ!)を、堀辰夫が「風立ちぬ、いざ生きめやも」と訳したことで有名だと思う。)

彼の著作活動は1892年に始まるんだけど、1897年までに数点の著作を世に出した彼は、その後1917年までの20年間、その職務の多忙さもあって一切の評論も詩も発表しない後世「偉大なる沈黙」と呼ばれる20年を過ごすことになる。(彼はモンペリエ大学で法律学を学んだのち、陸軍省の文官、次いで国際的な通信社社長の秘書官の職に就いていた。)

1917年、友人アンドレ・ジッドの勧めで発表した長詩『若きパルク』La Jeune Parqueが高い評価を得て、1920年に長詩『海辺の墓地』Le Cimetière marin、1922年に詩集『魅惑』Charmesを発表した後、彼は批評や評論に専念していく。

今回訳した詩は、彼の最後の、と言っていい詩集『魅惑』Charmesの中の一篇になる。

*

形式的には、この詩は8音節(オクタシラブル)で構成されているソネ(sonnet,英詩でいうソネット)に分類される。

各行の8つの音節の、前4音節と後ろ4音節の間には、カエスーラ(caesula)と呼ばれる休止が入っている。

(日本の七五調とか、中国の七言絶句みたいに、各行の発音リズムが綺麗に整えられている。)

また、脚韻(rhyme)を見てみると、イギリスの影響を受けたいわゆるエリザベス朝詩、シェイクスピア型の脚韻を持っていて、

第1連:-an/-ieux
第2連:-eur/-vin
第3連:-mee/-er
第4連:-ndes/-er

という形を取っている。

ただワインを捨てる第1連では、カエスーラ(休止)は3行目・4行目では単語の中に入りこんでいて明確ではなく、何か息苦しい響きになっている。

また最後、この8音節のリズムは第3連で一度崩れかけるように見えるものの、最後の第4連で安定を取り戻す。

詩の意味と呼吸が、ぴったり一致しているかのようなリズムがここにはあるように見える。


単語は綿密に組み立てられていて、音節も綺麗に詩の意味に乗っている。

(しかもその意味たるや、自分の中の血を捨てる詩。)

すごい詩だと思う。


おそらくこの、19世紀から20世紀にかけてのフランス詩というものは、西洋音楽でいうところのクラシック音楽や、ルネサンスでいうところのマニエリスム直前の時期のように、特異な様式が確立されて成熟される時期にあたるんだろうと思う。

自分の中から何か―おそらく詩に引きずられる情念―を捨てるそのギリギリのところを、あくまで客観的に、冷徹に描いている作品であって、しかもその感情と呼吸の動きを単語のリズムで完全に統御して表現している、とんでもない作品。

*

もうすぐ、奥さんと子供が帰ってくる。

子供と一緒の生活がどんなものになるかはまだ分からないけど、子供のために様々な場面で冷静な判断が求められる生活になるんだろうなと想像はしている。

(捨てるものも、きっと多くなるだろう。)


ヴァレリーの評論も、読んでみようかな。



nice!(6)  コメント(17)  トラックバック(0) 
共通テーマ:

[社会]イアン・ブレマー著『スーパーパワー(superpower)』発売。 [社会]

自分が読んでいない本を紹介するのは気が引けるけれど、今後大きな話題になりそうなので取り上げてみる。

5/19の火曜日に、アメリカで『スーパーパワー(超大国)』という題名の本が発売されて、大きな話題になっているらしい。書いたのは日本でも有名な政治学者、イアン・ブレマー。

論じられているのは、アメリカという国家の建て直しの議論。ウクライナやシリアで存在感を示せないのみならず、国内でも人種差別による暴動や、NSAの盗聴問題、国民皆保険制度の頓挫と医療制度の崩壊など、多くの問題を抱えているアメリカに対して、外交方針からの建て直しを提示した本。本の中ではアメリカが今後取りうる外交方針として3つの指針が示されているのだけれど、海外からの撤退をも視野に入れて議論が展開されていることで発売当初から大きな注目を集めている。
(Amazon.co.ukでは、5/27現在15件のレビューが書き込まれているが、そのうち5件は発売当日の5/19のタイムスタンプが入ったレビューである。)

この本の中では、アメリカの取りうる外交方針の選択肢として、1.現在と同じように、世界を包括的に管理していく。2.手を引くべきところは手を引いて、関わる地域を限定していく。3.他の多数の国家と同じように、内政問題に財政を振り向けて建て直しに力を注ぐ。―といった3つの選択肢が示されているらしい。

選択肢の一つを採れば、アメリカはアジアから撤退することになる。

以下、Amazon.co.ukでHelpfulをもらっていたユーザーのレビューが、要点が分かりやすかったので翻訳して幾つか引用する。



Amazon Reviewより:
http://www.amazon.com/Superpower-Three-Choices-Americas-World/dp/1591847478/ref=sr_1_1?ie=UTF8&qid=1432681247&sr=8-1&keywords=superpowerl

By Leon on May 19, 2015
グローバリゼーションが進む一方で、アメリカはどこにいるのか?(Globalization marches on, but where is America?)

グローバリゼーションは進行しているが、しかしそれはもはやアメリカナイゼーションと同義ではない。この本は、新しい指針を示さねばならないワシントンにとっては、耳の痛い本である。

イアン・ブレマーは、アメリカが選ぶべき3つの外交方針の道に、読者をいざなう。
「アメリカは世界をリードすべきである」という、"indispensable(必要不可欠なアメリカ)"の道。
「アメリカは戦略的に世界と関わっていくべきである」とする、"Moneyball(利益を追求するアメリカ)"の道。
「アメリカは自身のことをまずは気に掛けるべきである」とする、"Independent(独立するアメリカ)"の道。

私はこの書籍の結論にあたる、アメリカ外交方針への著者の選択には同意しないが、私が著者と完璧に異なる結論に、全く同じ論点から至ることができたということが、この本がバイアスの入っていない、クリアーな本であることの証明になるだろう。
2016年の選挙の地平へ向けて、必読の書である。


By M. Peterson on May 19, 2015
アメリカの外交方針への中立的ガイド(Your nonpartisan guide to America's foreign policy)

いよいよ世界はグローバルになり、アメリカはそれに比して小さくなる。これがイアン・ブレマーの新しい著書の出発点だ。しかし、アメリカはまだ選択肢を保持している。中国を考えに入れ、もしくはその問題に取り組むのか?包括的な貿易協定を結ぶか、もしくは自国内の労働力の問題を優先するのか?タイム誌の外交問題のコラムニストでもあるブレマー氏は、両党全くどちらにも属さない選択肢を読者の前に展開する。もしあなたが、自分の中での国家の行くべき道を明確にしたいのならば、この本を読むべきである。


By Loyd E. Eskildson on May 19, 2015
戦略なき外交方針(We Have A Foreign Policy Without A Strategy)

アメリカの同盟国は今や、我々が古き良き時代に主張していたグローバルな責務へのアメリカのコミットメントの強さに疑問を持っている。力を付けつつある中国やロシア、湾岸諸国やインド、ブラジル、トルコ、およびその他の新興国家は、彼らの得意分野での影響力をそれぞれ伸ばしながら、アメリカのリーダーシップと経済的ガイドラインを拒否できることを既に示している。

中国は特に重要な問題を提起している。市場やエネルギー供給を増加させ、軍事的な、再び目覚めた民族主義的な情熱を満たすために、地域的影響力を構築してきており、この地域の係争海域で、より中国は対立的になってきている。一方、日本はより積極的な防衛政策に移行しており、アメリカは簡単に二国間の対立に引き込まれる可能性がある。

ヨーロッパでは、ロシアは特にウクライナにおいて、以前の領土の回復をロシア人の大半が求めている。プーチンは、西側諸国は長期的な戦いにはコミットしないと確信しているようだ。 彼は正しいのかもしれない。 ロシアはEUの三番目に大きい貿易相手国であり、そのエネルギー資源の豊富さによってロシアと中国は互いに接近し合っている。

中東においては、アメリカに加えてサダムの冷酷な支配による不安がテロリスト、そしてイランを増長させ、タリバンとアルカイーダを13年の間飼いならしてしまったという無策が我々の威信に更に打撃を与えている。

経済的なリーダーシップについては、我々の一人当たりGDPはまだまだ非常に高いレベルにあるが、しかしながら中国のPPP と実質的なGDPは、現在の私達のものよりも大きいと考えられている(※訳注:実際の統計情報は未確認)。また我々が多くの窮地を脱した2008年の金融危機において我々は世界で最も大きい債務を背負い、ソフトパワーは削がれ続けている。

ブレマーは、アメリカの外交政策は戦略を欠いており、そのため非常に対価の大きい、リスクの高いものになってきていると見ている。冷戦の終結以来、アフガニスタン、イラク、イラン、リビア、シリア、ウクライナと危機が連なり、明確な戦略がないままに我々はつまづき続けてきた。著者ブレマーは、それを変える助けをしたいと考えている。

ここまで述べたことを考えると、アメリカは近い未来にどのような役割を果たすべきだろうか?アメリカは自身の問題に取り組んで、他の国には自分で自国の問題を解決させ、アメリカの強さを内側から再構築するのに集中する時が来ていると言う者もいる。 他方、我々は他国に政治的・経済的価値を押し付けるためではない、ただアメリカをより安全で豊かな国にするための野心的な外交政策を追求できるし、またそうすべきであると主張する人間もいる。 そして第3のグループは、世界はリーダーシップを必要としており、ただ我々だけがそれを提供でき、また普遍的に民主主義や、表現の自由や、情報の開示や、個人の権利が尊重されている方が我々にとってより良い状態だろうと主張している。ブレマーの意図は、アメリカ人がこの3つの間で選択するための情報に基づく土台を読者に提供することにある。

ブレマーは、最後まで彼の推奨する選択肢を保留させている。彼は"必要不可欠なアメリカ(indepensable America)"のアプローチを好んでおり、それはアメリカだけが、世界の紛争数の増減をも視野に入れた努力を試みることができ、また彼が全てが可能な基本的な権利を望んでいるからでもある。 彼は、アメリカの人々がとりあえずは第一の選択肢で行けばよいのにと思っているこのアプローチに対しても、問題点を指摘している。世界中の多くの人々はアメリカに付いていく価値を見出しておらず、我々のことを不適当で矛盾を抱えたいじめっ子だと考える者もいるのである。



**

この本に今後どのくらい反響が出てくるのかは未知数であるし、本の内容そのままの政策が採られることはないだろうと思う。

しかし、この本の内容もさることながら、この本の発売に大きな関心が寄せられている現象自体が、非常に注目すべき現象なのだろう。

預言的な本として、『レクサスとオリーブの木』のように長く記憶される本になるかもしれない。






(2015/05/28 21:16 一部文章・訳文 修正)
nice!(1)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:

[政治]日本国憲法を改正してみた。 [政治]

去年の11月にあった衆議院選挙で与党が3分の2を確保したことから、次の参議院選挙の結果次第では憲法の改正が現実味を帯びてきた。

巷間出ている改正案があまりにも大幅な改革を含むものが多いので、現状の問題点の修正のみに絞った改正案を作ってみた。


改正方針は以下の4つ。

**

1.現行体制との齟齬の縮小
今回の改正案では、現憲法と現在の体制との間の隔たりを埋めることを最大の目的とする。
現行の憲法の条文の中には、現在の行政運営を鑑みて既に現実的ではない条文が存在する。
また、国民の多くが必要と認めている事案に対して、現憲法の条文を素直に文理解釈した場合に違憲状態と考えられてしまう事例も見受けられる。(それらのあるものは政府解釈によって、またあるものは判例によって合憲の解釈がなされている。)また、憲法条文の文章自体にも、制定当初からの瑕疵として修正が必要な部分が存在している。
本改正案では、上記の問題点を修正し、現憲法を現実の体制に合わせた真正な文章とすることを第一義とする。

2.未来を見越した修正
現憲法には、制定時には想定されていなかった事案について、その条文が制約となる部分が幾つか存在する。将来的には政府解釈あるいは判例をもって合憲とされるものであるが、本改正案では将来のことを鑑み、その部分を修正範囲に含める。

3.改正に関する改正
解釈による改憲を漸減し、第1項のような事案が出てくることを防ぐため、憲法改正の要件を緩和し、政府解釈ではなく広く国民の意見によって改憲の是非を問えるように修正する。

4.大幅な改革の禁止
本改正案では、上記の3項を改正の目的とし、上記修正以外の修正は行わない。憲法条文の修正は、必要と思われる範囲に留める。

**

改正案は以下。

アップロードURL:
http://home2.dip.jp/stores/55f6d9d36155ccb116000161  
DLパスワードは「kenpo」




法曹の専門家ではないので、その点はご了承ください。

また、万一アップロード先がリンク切れになっていた場合はご連絡頂けると幸いです。



(2015/09/14 23:35 改正案pdfの不具合を修正/再アップロード)
nice!(1)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:

[書評] 朝井リョウ『桐島、部活やめるってよ』 [詩・小説]

新潮文庫の新刊『小林秀雄月報集成』を読むことが、最近の密やかな愉しみになっている。

小林秀雄全集の、各巻に挟まれた月報の文章を集めたもの。

第1回配本時月報の辰野隆から始まり、川端康成、坂口安吾、安岡章太郎など、小林秀雄を巡る文章が75篇収められたこの文庫が、すごく面白い。

例えば物理学者の中谷宇吉郎は科学の世界における妥当性の考え方と、美の世界におけるそれを比較して小林秀雄を論じる。

クラシック評論家の吉田秀和は≪モオツアルト≫から得た啓示を小林秀雄との思い出に絡めて、思想の核心に触れようとする。

小説家の水上勉は、小林と桜を巡る思い出から、伝えられた思いを語る。

中谷宇吉郎の随筆、吉田秀和の評論、それぞれの持つ文章のスタイルで、一つのテーマについて書かれた文章が一冊にまとまったこの本は、まるで多面体に嵌め込まれた様々な色ガラスのようにも見える。

*

この文庫を読んでいると、別の小説を思い出す。


朝井リョウ著、『桐島、部活やめるってよ』。

バレー部のキャプテン・桐島が部活をやめることで起こる波紋を描いた、朝井リョウのデビュー作。


この物語に、桐島は出てこない。

物語の核となっている「桐島」は伝聞としてしか登場せず、学校内の6人の語り手の一人称のみで物語が進んでいく。

(あきらかに、ベケットの『ゴドーを待ちながら』か、ピランデルロの『作者を探す六人の登場人物』が意識されている。)

*

僕の持っている、新潮文庫版『桐島、部活やめるってよ』の目次は、こうなっている。


菊池宏樹 9

小泉風助 15

沢島亜矢 51

前田涼也 83

宮部実果 129

菊池宏樹 177

------------------------------

東原かすみ~14歳 211


解説/吉田大八 240


(数字は開始ページ)



第1章の「菊池宏樹」は4ページ足らずの序章としての章なので、事実上、6章/6人の語りで物語は展開するのだけれど、一つ一つが、また別の章とリンクして、その章がさらに別の章へリンクして、という具合に物語が繋がっていく。

*

第1章の「小泉風助」に、こんなシーンがある。

試合でのポジションが同じ「桐島」がバレー部から抜けることになって、初めて試合に出られることになる「小泉風助」。
嬉しい気持ちを抱く自分がどこか後ろめたい「小泉風助」が、その気持ちを自覚するシーン。


「実果ちゃん、今日はまだ来とらんの?いつもやったら、もうこのくらいの時間には二階席のはじっこでもじもじしとんのにさ。(中略)」
「・・・・・実果かー、今日は来ねえな」
孝介はこちらを見ないまま、手首と足首をやわらかく動かしている。テーピングはマネージャー持ってんのかな―、なんてぼやきながら辺りを見回している。
「え?なんで?いままで欠かさず来とったやん」
日野には、これ聞いていいのかなー、なんていうためらいはないらしい。
「・・・・今ケンカ中やし。それもこれから別れそうなほどのケンカ」
「は?いつから?」
「桐島がやめたちょっとあとくらいかな」
俺の心臓はもう一度どくっと脈を打つ。どこかに沈殿していた嫌な気持ちの混ざった血液が、一気に体内に押し出された気がした。




もちろんこのシーンの中核は、「桐島が部活をやめる」ということを改めて実感する「小泉風助」の胸中なのだけれど、その導線として語られるバレー部の副キャプテン「孝介」の彼女の「実果」は、第4章の「宮部実果」に繋がる。
その第4章では、ここで出てくる「ケンカ」の遠因が宮部実果の家庭にあることが語られる。


あるいは、第3章、「前田涼太」。

映画部に所属する「前田涼太」が、同じ部の「武文」と購買で話す際に、自分たちのことを女子が噂しているのを耳にするシーン。


「誰やったかな、その作品の監督・・・・・・話もよくってさ」
武文は話し続ける。必死に、動揺を隠しながら話し続けようとしている。絶対に聞こえているはずだ。だけど僕らは気づかない振りをする。
「今日の朝の集会も、映画部?って雰囲気になった明らか!」
マジうち沙奈と笑い堪えるの必死やったわー!梨紗が笑うであたしもつられたんやろ!てか作品タイトルみたいなんやばくなかった?やばかったやばかった!覚えとらんけどなんかロミオとジュリエット系やったよね!なにその系統?梨紗ってホント頭悪いよなー。
ず、ず、と列が前へと動いていく。
武文がまだ真木よう子について話し続けていたが、意識が耳に傾いていることが丸わかりだった。



この章の語り手「前田涼也」が、いわゆる「イケている」グループに対して劣等感を抱くシーン。
ここで出てくる女子グループの一人「沙奈」は第5章「菊池宏樹」が付き合っている彼女なのだが、第5章では彼女は「菊池宏樹」から全く別の認識で見られていることが分かってくる。


章が進むにつれ、どんどんと新しい視野が加わって、人間関係の多面体が構成されていく。

話のトリガーとなる「桐島」は、あくまで回想でしか出てこない。

増殖する色ガラスのような、そんな小説。



*
一方でこの作品は、最後に朝井リョウが抱く、希望とも言える場面へと着地していく。
(音楽でいうと、組曲でありながら「前田涼太」をトリオに持つロンドあるいは複合三部形式。)

それは、『ゴドーを待ちながら』や、『作者を探す六人の登場人物』でベケットやピランデルロが示そうとしていたことと、仄かに響きあう。


例えば、ピランデルロの戯曲『作者を探す六人の登場人物』の台本前序文。


私は象徴的芸術を憎む。その舞台表現はあらゆる自然の動きを失って、機械に、寓意に変わってしまう。それは無駄な、意味を取り違えた努力なのだ。何故ならば、舞台表現に寓意の意味を付するということだけでも、すでにそれ自身なんの幻想的真実も具体的真実も持たない寓意のための表現、なんらかの道徳的教訓を教える目的のために書かれた寓意のための表現だということが明白だからである。

(白澤定雄訳 新水社『ピランデルロ戯曲集Ⅱ』より)



あるいは、ベケットの『ゴドーを待ちながら』の最後のシーン。


vladimir Alor,on y va? ウラディーミル そろそろ行くか?

Estragn Allons-y. エストラゴン 行こう。

Ils ne bougent pas. 二人は動かない。




あるいは、寺山修司の戯曲『邪宗門』の最後のシーンのト書き。


俳優たちが自分たちの手で舞台を叩きこわす。
目つぶしの照明の中で、アジるもの、叫ぶもの―すべては即興的で、しかも暴力的に、一時間持続してきた「劇をこわし」て叫びつづける。





『多様なものが多様なまま美しく存在しているならば、哲学は必要ない』というのは、誰の言葉だったか。
(「哲学」ではなく、「現象学」だったかもしれない。)


結論に直線的に向かわざるを得ない論文とは違って、音楽や文学にしかできないこういった方法はむしろ、直線的ではない、多面的な世界を読者に提示し続ける。

そしてそれは、これこそが世界のあり方なのだと言っているように、僕には思える。





nice!(2)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:

[海外記事]『私はシャルリーではない』という人たちの声を、我々は聞かなければならない。≪ Il faut ecouter ceux qui disent “Je ne suis pas Charlie”≫ [海外記事]

「シャルリー・エブド」への一連のテロ事件についてテロリズムへの非難、もしくは表現の自由の制限に関する記事が多い中、興味深い記事を見つけたので訳出してみた。

デモに参加したフランスのイスラム系ラジオ局、BuerFMのトップへのインタビュー。
フランスLe monde紙の記事。

(記事が大規模デモ行進の2日後に早くも書かれていることにも注目したい。)


*


『私はシャルリーではない』という人たちの声を、我々は聞かなければならない。
≪ Il faut ecouter ceux qui disent “Je ne suis pas Charlie”≫


http://www.lemonde.fr/societe/article/2015/01/13/il-faut-ecouter-ceux-qui-disent-je-ne-suis-pas-charlie_4554861_3224.html,le monde、2015/01/13 9:23(update 2015/01/13 17:49)


過去のイスラムへの諷刺への意見の相違にも関わらず、BeurFMのトップ、Abdelkrim Branineは水曜日(訳注:1/7、テロが起きた当日)にシャルリー・エブドへの支援を表明した。 あの悲劇の数時間後、彼はメディアパート(訳注:フランスのWEBニュースサイト)の事務所で開催された『自由のために、憎悪に反対』に参加した。

自分自身を、イスラム世俗メディアのトップであるムスリム、と定義づけている彼はしかしながら、一緒くたに見られることによるリスクがムスリムを襲うのを恐れていると発言した。
金曜日の夜、「 Z'informes 」(訳注:BeurFMの情報番組)のホストは、1/11の 「人類の歴史の中で最大の政治的回復」のデモについて、 Twitterで訴えていた。


―あなたは結局、デモに参加しています。あなたは進んで行ったのですか?

はいそうです。(デモの中では)不快感も戻ってきました。
イスラエルの首相については、WEB上でその戦争犯罪を見ることもできますし、ガボンの指導者や、トルコや、ハンガリーのオルバン首相など・・しかしこういった政治家たちは、イベントには長く滞在していませんでした.。そして結局、人々の熱狂の方が続いています。それはとても巨大でした。実際のところ、とても美しく、歴史的で、震えが走りました。


―あなたの知り合いのイスラム教徒や、Beur FMはどうしていましたか?

イベントの前に、まずセキュリティ上の懸念を持っていた人が幾人かいました。これはファンタジーではないのです。水曜日以降、モスクやその中の人々に数々の攻撃がありました。そして彼らは恐れていました。私の両親はオフィスに行かないようにと私を呼び、私は金曜までモスクに行くのを延期しました。私の良き両親はアルジェリアに帰るのを伸ばしています・・・


―聴取者の間に、論争などはありましたか?

一部の人々は、デモに参加したい気持ちを持っていましたが、『良いムスリム』とか『非ムスリムのテロリスト』といった分類をしたくないという気持ちから、(デモに参加することで)自分自身を正当化することを拒否しました。それは確かに問題から距離は置けるでしょうが、同時に批判も受ける行為です。


―(デモに対して、)ムスリムが策定した最終的な指針は、あなたが見たところ何でしたか?

多くの人々はぎりぎりで(デモに)行くことを選びました。フランス生まれでない、思慮深い老人たちがいました。しかし、若い人たちもデモに参加しました。

私は動員されたグループについていきました。木曜日(訳注:1月8日)から準備され、重要な組織のリーダーたちの周囲で特に組織されていました。
AC le Feu(*訳注1)のMohamed Mechmache、Stop le controle au facies(*訳注2)のSihame Assbague、Indivisibles(*訳注3)のAdil El Ouadehなどです。

*訳注1 パリ郊外で組織された自由・平等・博愛のための協会
*訳注2 人種差別的な取り締まりに対する防止組織
*訳注3 民族・人種的偏見にユーモアで反対する組織


―報道によると、「『シャルリー・エブド』はムハンマドの肖像画への報復を自ら求めていた」と考える人たちがいることや、シンプルに「私はシャルリーではない(Je ne suis pas Charlie.)」と言っている人たちのことが伝えられています。このことについてはどう思われますか?

これは重要な問題であり、事態は深刻です。フランスでも幾つかの議論が巻き起こることでしょう。 「『シャルリー・エブド』は襲撃されるだけのことをした」などと言う少数の輩に対しては、私は法に任せようと思います。

『私はシャルリーではない』と言っている人々の声は不器用ですが、彼らには耳を傾ける必要があります。 ジョージ・W・ブッシュ大統領の言った「敵になるか、味方になるかどちらかだ(you are with us or against us.)」と同じく、あまり知的な脅しにはなりませんが。 彼らはただ、「シャルリー・エブド」のイスラムへの扱いに賛成できない、と言いたいだけなのです。

事象以上に、これは預言者ムハンマドのカリカチュアによる冒涜だと考えられています。
これはターバンの中の爆発しそうな爆弾で示された絵と同じなのです。(*訳注4)

それは、イスラム教をテロリズムを結びつけて考える、イスラモフィビア(イスラムへの嫌悪感)と類似しています。しかしこういった意見の相違は、「シャルリー・エブド」に起こったことに比べれば小さなことです。
そして我々は、家族の痛みを分かち合うために「私はシャルリー(Je suis Charlie)」という必要はないのです。

*訳注4:2006年にデンマーク紙がムハンマドのターバンに爆弾を乗せた諷刺画を掲載してアラブ圏から怒りを買った事件を指す

(中略)

―1月11日以後をどのように見ていますか?

多くのテーマがあります。このような攻撃に参加する人たちを増やすような、不正と差別に対しては戦わねばなりません。さらにまた、ユダヤ人社会については、同じ地域に住む安心できる住民へと戻っていくでしょう。私たちは話すべきなのです。古い言葉で、#jewsandarabsrefusetobeenemies(*訳注5)というのは、2014年のイスラエルとパレスチナの紛争の中での繋がりで生まれた言葉ですが、いまや単なるtwitterのハッシュタグ以上のものとなっています。

*訳注5:「ユダヤ人とアラブ人は敵となることを拒否する」ことを意味するtwitterのタグ。

指導者たちの経歴が対話への障害となっています。ムスリム社会の側は、正当性の大きな欠如があり、また、いずれ切れるべき祖国との繋がりや領事館との繋がりがまだ残っています。ユダヤ社会の側は、指導者たちはとても右寄りで、フランス国内のユダヤ人よりイスラエルを代表しています。それは、フランスにおけるイスラエルとパレスチナの紛争なのです。私たちは、それを超えて行かなければならないのです。




*

「Je suis Charlie」は、ペンの力を守る運動であり、それはつまり「Je ne suis pas Charlie」と言う権利を守る運動でもある。



ユダヤ系のスーパーマーケットで人質となった客を守ったのは、イスラム系の店員であったことを忘れてはいけない。

BeurFMのトップが大規模デモ行進に参加したことも忘れてはいけない。


「Je suis Charlie」と「Je ne suis pas Charlie」が共存する道を、フランスは歩んでいくように見える。


nice!(0)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:

妹の詩を悼む :Stéphane Mallarmé,soupir(1868) [詩・小説]

長く翻訳を試みていた詩が、ようやく完成した。

といっても、何回も挫折しては放っておく、という繰り返しだったのだけど。

最初に手を付けたのがたぶん6年くらい前。

そこから記憶にあるだけで、3回は翻訳を諦めた。


それがなぜか今年になって、最後まで意味が繋がって取れるようになった。



マラルメの「soupir」という詩。


Soupir

Mon âme vers ton front où rêve, ô calme soeur,
Un automne jonché de taches de rousseur,
Et vers le ciel errant de ton oeil angélique,
Monte, comme dans un jardin mélancolique,
Fidèle, un blanc jet d'eau soupire vers l'Azur!
- Vers l'Azur attendri d'octobre pâle et pur
Qui mire aux grands bassins sa langueur infinie,
Et laisse sur l'eau morte où la fauve agonie
Des feuilles erre au vent et creuse un froid sillon,
Se traîner le soleil jaune d'un long rayon.





吐息

僕の想いは
紅の斑を散らした秋を夢見るおまえの額に向かう

おまえの天使のような瞳がゆらめく空へと向かい
陰鬱な庭にいるように
昇っていき

白く輝く噴水は
青空へ向かって息を吐き
青白く混じりけのない10月の優しい青空へ向かって

水面には限りない気だるさが映り
濁った水が残っている

小麦色の木の葉がもがき
風に弄ばれている水面に

黄色い太陽に長い光を投げかけられ
冷たい波紋を刻む




**


もういない人――死んでしまった人へ送る詩。


マラルメは母親を5才のとき、妹を15才のときに亡くしている。
(その後、37才のときには当時8才の次男を亡くしている。)

この詩が書かれたのが1868年だから、マラルメは24才で、
おそらく妹のことを書いた詩なんだろうと思う。


自分の吐息に、噴水の吐息を重ねて描き、
最後、噴水の水面に自分の心情を重ね合わせた詩。



この詩はアレクサンドラン(alexandrin)と呼ばれる、
フランス詩でよく使われるリズムで書かれている。
1行につき、音節が12個あって、
ちょうど日本人の5・7調みたいに読むと気持ちのいい長さ。

(ソネット(sonet)と比べてみると面白い。
(シェイクスピアの詩(http://uyuno.blog.so-net.ne.jp/2013-10-13))

あと、中国やイギリスの詩と同じように、最後の音が綺麗に整えられている。
(1/2行目の終わり(-ur)、3/4行目の終わり(-que)、
5/6行目の終わり(-ur)、7/8行目の終わり(-nie)、
9/10行目の終わり(-on)。)


7年前にこの詩を選んだのは、単純に短かったから。

噴水(jet d'eau)は聖書や神話ではどういう象徴なんだろうか。

マラルメに限らず、西洋の詩は長いものも少なくないけれど、
この詩は短い中にも技巧が凝らされた良い詩だと思う。

nice!(2)  コメント(1)  トラックバック(0) 
共通テーマ:

柿本人麻呂の歌へのメモ:万葉集 巻の二 二〇七番。(きわめて個人的なブログ。) [詩・小説]

何もする気が起きなくて、昔書いたものを読み返していたら、柿本人麻呂の歌へのメモが見つかった。

万葉集、巻二の二〇七 『 柿本朝臣人麻呂 妻が死にし後に 泣血哀慟して作る歌』。

(カッコの部分は、枕詞や序詞の部分だと思ってください。)




天飛ぶや
軽の道は
我妹子が
里にしあれば
ねもころに
見まく欲しけど
やまず行かば
人目を多み
まねく行かば
人知りぬべみ
さねかずら
後も逢はむと
大舟の
思ひ頼みて
玉かぎる
磐垣淵の
隠りのみ
恋ひつつあるに
渡る日の
暮れぬるがごと
照る月の
雲隠るごと
沖つ藻の
靡きし妹は
黄葉の
過ぎて去にきと
玉梓の
使ひの言へば
梓弓
音に聞きて
言はむすべ
せむすべ知らに
音のみを
聞きてありえねば
我が恋ふる
千重の一重も
慰もる
心もありやと
我妹子が
止まず出で見し
軽の市に
我が立ち聞けば
玉だすき
畝傍の山に
鳴く鳥の
声も聞こえず
玉桙の
道行く人も
ひとりだに
似てし行かねば
すべをなみ
妹が名呼びて
袖ぞ振りつる

(天空を飛ぶという)
軽の地には、
僕の奥さんがいる。

心の底から
会いに行きたかったんだけど、
絶えず行ったら
人目が多くて気になるし、
定期的に行ったとしても
人の知るところになるだろう。
(分かれたさきで絡み合うさねかずらのつるのように、)
今は別れていても後で会えばいいと思って、
(大船に乗った気持ちで)
ゆったりと構えて
(音も無く輝く玉のように、)
(岩に囲まれた川のふちにいるように、)
家にひそんで
彼女のことを想っていたら、
空を渡る太陽が
いつか暮れてしまったように、
あんなに照っていた月が
いつのまにか雲に隠れてしまったように、
(海の底に生えている海草が波にあわせてなびくように)
いつも僕に寄り添ってくれていた彼女は、
まるでもみじが散るように
「彼女は死んでしまった」と
(言づてを運ぶ使者の印である玉梓の杖を持った)
使いの人が知らせてくれた。
(巫女の鳴らす梓弓の弦の音を聞くように)
その報せを聞いて、
僕はもう何を言っていいのか
何をしていいのかまるでわからなくなって、
その報せを聞くことしかできない、
そんな状態に耐えられなくて、
彼女を愛するこの気持ちの、
そのたった千分の一でもいいから
慰められないかと
そんなことを思って、
僕の奥さんが
いつも行っていた
軽の町の市場に
僕は立って、人の声の中に彼女の声を探した。
(美しいタスキを掛けるうなじを思い出すような、)
(畝傍の山に住む
鳥の声も)
僕の奥さんの声も聞こえず、
(お守りの玉と武器の桙を持った旅行く人のいる)
道行く人の中にも、
誰も
僕の奥さんに似た声の人も通らなかった。
僕はもうどうしようもなくて
彼女の名前を呼んで
いまそこにいるはずの彼女に懸命に袖を振った。




*


奥さんと一緒に、ピアゴに行こう。


nice!(0)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:

シェイクスピアはすごい!:Shakespeare,sonnet No.60 [詩・小説]

うちの奥さんはイギリスが大好きで、イギリスの紅茶が大好き。

ロンドンに1か月語学留学してたこともあるみたいなんだけど、今でもイギリス英語を中心に、英語の勉強は続けているみたい。



で、そんな奥さんにあてられて、遅ればせながら僕も、イギリスの文学に興味を持つようになってきた。


あと、ウィスキーも好きになってきて、スコッチを飲んでみたくなってきてたり。
(これは関係ないか・・)




当然のようにイギリスの文学も興味を持ち始めて、シェイクスピアの詩を読んでみたら、これがすごかった。





以下、シェイクスピアが、「時間」の残酷さについて謳った詩。
シェイクスピアのソネット第60番。


*

SONNET 60

Like as the waves make towards the pebbled shore,
So do our minutes hasten to their end;
Each changing place with that which goes before,
In sequent toil all forwards do contend.

Nativity, once in the main of light,
Crawls to maturity, wherewith being crown'd,
Crooked eclipses 'gainst his glory fight,
And Time that gave doth now his gift confound.

Time doth transfix the flourish set on youth
And delves the parallels in beauty's brow,
Feeds on the rarities of nature's truth,
And nothing stands but for his scythe to mow:

And yet to times in hope my verse shall stand,
Praising thy worth, despite his cruel hand.

*

小石の転がる岸辺に波が押し寄せるように
時は最後に向かってせきたてる
過ぎ去った時はすぐに変わってゆき
それぞれの時が全て前へと競っている

人間は一たび光の中へ生まれると
成熟へ向かって這いつくばり、そして成人し
輝かしい戦いが暗い影に替わっていく
人間に光を与えた時というものが今や呪いをはじめるのだ

時は、若き日の華やかな栄光は打ち止めにし
美しい女性には皺を刻み
自然の真実の作り出した稀なるものを喰い荒らし
そうして、その大鎌で刈られぬものなど何一つない


それでもなお、未来に向けて、私の詩は
君の美しさを讃えるはずだ。かの冷酷なる手をものともせず。


*



第1連で、丸石の転がった岸べ(pebbled shore)に波(wave)が急き立てていて(hasten)、

第2連では輝くような人生が、急に日食(eclipse)に侵されて、時間(Time)が本性を見せ始める。

第3連では人の顔が老いていく様子が描写され、時間(Time)の持つ大鎌(scythe)によって全てが刈り取られることが言い放たれる。

そして最後、
第4連で、それでも詩(verse)は永遠に生き残る(stand)と宣言して、この詩は幕を閉じる。




この「ソネット」っていう形式は、中国でいう七言絶句みたいなもので、ひとつひとつの文章は弱/強のリズムのセットが5回続く。
日本でいう七五調みたいな読みやすいリズムになっている。
(弱強5回セットが一番典型的らしい。)

そして文の最後の音が1つおきに揃えられている。

(この詩だと脚韻が:

第1連:-ore/-nd
第2連:-t/-nd
第3連:-th/-ow
第4連:-nd

こんな感じ。)


そのソネットのリズムの中、急き立てる(hasten)時間のイメージと、日食(eclipse)の単語のイメージから、死神の持つ鎌(scythe)が想起されて、でも自分の詩は、刈り取られずに生き残る(stand)っていうことを謳いあげている、そんな詩。



リズムとイメージの流れとストーリーとが一体になった、心臓をえぐられるような詩。

(シェイクスピアの「ソネット集」にはこんな詩があと153編もある。)

*




シェイクスピアは本当にすごい。


昔はこんな、愛だの時間だのをストレートに謳いあげたものは恥ずかしくて読めなかったんだけど、

正直結婚なんてしちゃうと、自分はもう若くないって思えてきて、今更恥ずかしがってても仕方がないって最近思えてきた。




こういう詩を読むときって、なんだか熱くて香りがギュッと凝縮されたものを、身体の中に入れていく感じ。

まるでコーヒーリキュールの底に残った砂糖を一気に飲み干すみたいな。





ああ。スコッチ飲もうかな。



対訳 シェイクスピア詩集―イギリス詩人選〈1〉 (岩波文庫)

対訳 シェイクスピア詩集―イギリス詩人選〈1〉 (岩波文庫)

  • 作者: シェイクスピア
  • 出版社/メーカー: 岩波書店
  • 発売日: 2004/01/16
  • メディア: 文庫



nice!(1)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:

能『俊寛』とチャイコフスキーの交響曲第4番。: お前は、この世界では、楽しむな。 [その他]

小さいころ、浦島太郎を主人公にした漫画を描いたことがあった。

浦島太郎は竜宮城じゃなくて、実は海の底の宇宙船に潜入していたっていう設定。


海に潜った浦島太郎が、好奇心から宇宙船に入り込んだあと、宇宙船は海の底から宇宙にワープ航行してて、地上に帰れた頃には何百年も経っていたっていう。そんな浦島太郎。

(最後、浦島太郎は自分の話を誰にも信じてもらえなくて淋しく死んでいく、っていうそんな結末にしていた。)



家で音楽を聴いていたら、そんな「浦島太郎」をなぜか思い出してしまった。



*



家で聴いていたのは、チャイコフスキーの交響曲第4番。

ロシアの民謡やワルツをたっぷり含んだ、明るい交響曲なんだけど、同時にこの曲はすごく怖い。



Tchaikovsky: Symphony 4 & Nutcracker Suite

Tchaikovsky: Symphony 4 & Nutcracker Suite

  • アーティスト:
  • 出版社/メーカー: EMI Classics France
  • 発売日: 2004/10/04
  • メディア: CD




この曲は、お祭りのような舞曲の中に、死の世界を意識させるようなトランペットのファンファーレが突然挿入される。

全体はロシアの民謡やワルツを取り混ぜた明るい曲。

だけど最終楽章、死を連想させるファンファーレが音楽を中断させて、最後は全てが幻想のように鳴り響く、そんな曲。

(本当は明るい曲、のような気もする。
だけど自分が聴いた演奏では、最後のフィナーレが明らかに幻想として演奏されていた。)



何度お祭りに参加しようとしても弾かれてしまう。

周りの世界に馴染めない、そんなチャイコフスキー。


*


あるいは、去年見た能楽の『俊寛』。


若くして死んだ世阿弥の息子、観世元雅(かんぜもとまさ)が作ったとも言われる話。






舞台は源平合戦の直前の頃。
平清盛に疎まれて、薩摩国の鬼界ヶ島に流罪になっている藤原成経、平康頼、僧俊寛の三人のもとに、ある日赦免の使者を乗せた船がやってくる。

船が着き、清盛からの赦免状がその場で読み上げられるものの、俊寛の名前だけがない。
(俊寛だけは許されなかった。)

他の2人を乗せた船を見送る俊寛の姿で、物語は幕を閉じる。

小さな能舞台の中で、一人だけ、世界から取り残されたように立ち尽くす俊寛の姿を描いた、そんな能。



お前は普通の世界に戻ってくるな、って言われた人間の話。




*


子供の頃、昔ばなしの『浦島太郎』のことを考えるとき、海の底から空を見たらどんな空の色が見えてるんだろうって思ってた。

浦島太郎は呼吸ができてるわけだから、海の底は空気があって、その上空には海水の底が見えていて、そのまたずっと上に、うっすらと海面が見えているんだろうと想像してみたり。

海の底のさらに奥の、時間の止まった世界で暮らすっていうのは、それはいいことなのかも知れないけど、でもやっぱり、地上の人間の世界の中に混じって暮らしたいよね。


(チャイコフスキーはどっちだったんだろう?)




よっし。もうちょっと仕事がんばろう。




nice!(0)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:

NHK大河ドラマ『八重の桜』第18回「尚之助との旅」 :夕日から夜へ。それから朝。 [映画・ドラマ]

2011年に結婚して、2年になる。

結婚式の準備だの引っ越しだので、いろいろ大変だった時期はとっくの昔に過ぎ去って、いまはちょっと落ち着いている時期。
仕事が終わって家に帰ってからは、二人でドラマなんかを見て過ごすのが日課になってるんだけど、この春やっているドラマで二人で見てるのは、NHKの大河ドラマ『八重の桜』。


八重の桜 前編 (NHK大河ドラマ・ストーリー)

八重の桜 前編 (NHK大河ドラマ・ストーリー)

  • 作者:
  • 出版社/メーカー: NHK出版
  • 発売日: 2012/12/20
  • メディア: ムック




先週の『八重の桜』を見逃したので土曜日の再放送をHDDに取って一人で見てみたら、これが結構すごかったので書いてみた。




第18回「尚之助との旅」。



冒頭で、前回までの展開が紹介される。
二回目の長州征伐が失敗に終わり、徳川幕府と薩長の対立が鮮明になってくる、そんな頃。

話としては、京都の情勢を聞いて会津の防衛に不安を抱いた八重が夫の尚之助とともに国境を見て回っていくっていう話。その一方、京都での動きも挿入されて、大政奉還へと至る流れも描かれてる。

第二次長州征伐と鳥羽伏見の戦いの間の「つなぎ」のようにも見える回なんだけど、これが本当にものすごくて。


この回のクライマックスは、2つある。

1つは、八重と尚之助が会津若松城下に帰ってきてからのシーン。

国境の様子を見てきた尚之助は、ご家老たちに「銃を作る製鉄炉を作るべき」と進言するも、「金がない」として退けられる。(会津藩は、京都守護職のため財政が逼迫し始めている。)

そのあとの、長谷川博己さん演じる尚之助と綾瀬はるかさん演じる八重の会話。
家の角場(銃の置き場)で、口を結び、夕日を浴びながら黙々と銃の手入れをしている二人のシーン。


尚之助「八重さん。」

八重「はい。」

尚之助「次は、日光口と越後口をまわりましょう。」

八重「え?」

尚之助「一つだめなら、また別の手を打つまでです。金がなくても、できることはあるはずだ。」



そしてまた、夕焼けを浴びながら銃の手入れをする二人。
静かに冗談を言い合って、目があって少し笑ったり。

八重と尚之助が浴びる柔らかな夕日が、このあとの時代の流れと、現在の会津と幕府の置かれている状況に重なり合って、本当に綺麗なシーンになっていた。




もう1つの山場は、その八重と尚之助の角場のシーンのあと。

京都での動きとして、小堺一機さん演じる岩倉具視が、徳重聡さん演じる大久保一蔵(のち利通)が夜の岩倉邸で密談をするシーン。燭台の灯りの中、岩倉具視から渡された書類を大久保が読む。


岩倉「近いうち、薩摩と長州に、この勅が下りる。」

大久保「(渡された勅を読む)『賊臣慶喜を殄戮(てんりく)し、以て速やかに回天の偉勲を奏し・・・』こいは?」

岩倉「慶喜を殺せ、との詔書や。・・これくらい激しく煽らんと、誰も本気でやらんやろ。」

大久保「・・・(目を細め、勅を凝視する)」

岩倉「守護職・松平容保と、所司代を討つ詔書も、おんなじときに出る。」

 
 
いわゆる『討幕の密勅』。岩倉具視が偽造して、薩摩・長州に下した勅命。

討幕の最深部である偽勅のシーンが、夕焼けの中の八重と尚之助の会話のあとに、洛外の岩倉邸での夜の密談として描かれる。


物語の組み立てが、前半の晴れ晴れとした旅のシーンから、後半の八重たち夫婦の夕暮れの中の会話、そして岩倉具視・大久保利通の夜の密談と繋がっていくように作られている。
まるで物語が進むにつれて日がだんだんと傾いていくような、そんな組み立てになっていて、すごく面白い。



この回の最後は、小泉孝太郎さん演じる徳川慶喜が、二条城の中で綾野剛さん演じる会津藩主・松平容保に、喘ぐようにして「大政奉還」の決意を話して、物語は終わる。

一応物語は一つ進んで、でもまだ緊張が解けたわけではない。

まるで交響曲の一つの楽章が終わって、形式的には音楽のおさまりはついたけど、まだ和音が完全に解決していない、みたいな。



*




たぶん、今年の大河ドラマ『八重の桜』は、映画「風とともに去りぬ」を意識して作られてる。(確か、第1回の冒頭は、アメリカの南北戦争から始まっていた。)

南北戦争を生き抜き、荒廃した南部で必死に生きていく主人公の女性、スカーレット・オハラ。

一方、同じ時代に会津戦争を戦い、維新後の日本で教育に人生を捧げる女性、新島八重。


(そういえば、『風とともに去りぬ』も、もの凄く綺麗な夕焼けのシーンが何度も出てくる。)


夕日のあとって、夜が来て、そのあと朝が来るんだよね。


次の話もすごく楽しみ。






風と共に去りぬ [Blu-ray]

風と共に去りぬ [Blu-ray]

  • 出版社/メーカー: ワーナ ー・ホーム・ビデオ
  • メディア: Blu-ray


中国現代詩人『北島』詩集 :我々は、文化でも負けている。 [詩・小説]

中国の現代詩集を読んでみた。


読んでみたきっかけは、この本の中の一つの文章。


先送りできない日本  ”第二の焼け跡”からの再出発 (角川oneテーマ21)

先送りできない日本 ”第二の焼け跡”からの再出発 (角川oneテーマ21)

  • 作者: 池上 彰
  • 出版社/メーカー: 角川書店(角川グループパブリッシング)
  • 発売日: 2011/05/10
  • メディア: 新書




東日本大震災から1か月後の2011年4月に池上彰さんが出版した、「日本よ、がんばろう」っていうことを盛り込んだ本。
TPPのこととか日本の借金のこととか、日本の社会問題を解説している本ではあるんだけど、池上彰さんにしては珍しく自身の主張や気持ちが随所に現れてて、ちょっと興味深い本でもある。



この本の中で、池上彰さんはこう言っている。



『いま日本人の対中感情は悪化しています。そこで感情的に「中国は嫌い」と言ってみても、それではすみません。
(中略)
「嫌い」をそのままにしておくと、いつか大きな摩擦が起こります。そして偏見の多くは、相手を知らないことによって起こるのです。
たとえば上海万博以降、「中国人って列に並ばないんだってね」という話がよく聞かれました。「中国人」というのは、どのような人たちを言うのでしょうか?少なくとも台湾の人やシンガポールの中国系の人たちは、きちんと列に並びます。民族として「中国人は」と一括りにしてしまうと、正しい認識にはならないのです。』



確かに僕の友達に中国の人が一人いるけれど、その人も、すごく礼儀正しくて、気持ちのいい人。
(そして頭が良くて顔も格好いい。)




この本を読んだあと、大きな本屋さんに中国の文学を探しに行って、中国の本を探してみた。

(実は、少し前から中国の詩に興味があったので。)

手に入れたのは、中国のいまの、現代の詩。




以下に中国の代表的詩人「北島」(ベイタオ)の作『回答』の一部を引用してみる。
(※各節の頭の番号は節を分かりやすくするために自分が振ったもの。)


【回答】

-------(中国語原文)----

1.
卑鄙是卑鄙者的通行证,
高尚是高尚者的墓志铭,
看吧,在那镀金的天空中,
飘满了死者弯曲的倒影。


2.
冰川纪过去了,
为什么到处都是冰凌?
好望角发现了,
为什么死海里千帆相竞?


(中略)

6.
如果海洋注定要决堤,
就让所有的苦水都注入我心中,
如果陆地注定要上升,
就让人类重新选择生存的峰顶。


7.
新的转机和闪闪星斗,
正在缀满没有遮拦的天空。
那是五千年的象形文字,
那是未来人们凝视的眼睛。



------(日本語訳)---------


1.
卑劣は卑劣な者どもの通行証
高尚は高尚な者たちの墓碑銘
見よ、あの金メッキされた空に
逆さに漂い満てる死者たちの湾曲した影を

2.
氷河期は過ぎ去った
なのになぜどこにかしこも氷なのだ
喜望峰は発見された
なのになぜ死海では千の帆船が競っているのだ

(中略)

6.
もし海が必ず決潰するものならば
苦い水という水をわが胸に注ぎ入れよ
陸が必ず隆起するものならば
人類に生きゆく峰々を新たに選ばしめよ

7.
新たなる転機、そしてまたたく星座が
さえぎるもののない天空に縫い合わされつつある
それは五千年の象形文字
それは未来の人々の見つめる眼


---------------------------
(翻訳は『中国現代詩三十人集』(是永駿 編訳)より)


第6連の「苦い水」は第2連の「死海」の水なんだろうと思う。

そして、第1連での「金メッキされた空」は最後の第7連の「遮るもののない天空」に繋がっているみたいに見える。


当時の中国の、言葉に気をつけなければならなかった状況を「苦い水=死海」で捉えつつ、偽りに満ちた世界(「金メッキされた空」)がいずれ突き抜けるだろう(「遮るもののない天空」)、という未来への期待を謳い上げた、そんな詩。


この詩はすごい。


ものすごい。



こんなにも孤独な、峻烈な状況を、固有名詞を何も使わずに、イメージだけで謳いあげているものって見たことない。

(何がすごいって、すべてのイメージがきちんと繋がって、連関していること。)



まるで世界にたったひとりで立ち向かっていくような、そんな決意にあふれたような。

ひどく荒れた大地の中に、たった一本立ち続けようとする、どこまでも高い木のような。



この詩を書いた北島(ベイタオ)さんは1949年、北京市の生まれ。
中国のいわゆる「文化大革命」の嵐のあと、1978年に中国の現代詩史上の金字塔ともいえる雑誌「今天」を創刊した人。

「北島」さんは、「文化大革命」の嵐のあと、それまで表現の抑圧されていた中国の文壇に、一気にモダニズムを吹き込んだ。
その詩はそれまでの、具体的なものを謳い体制を容認する、現在いわゆる「文学の空白」なんて呼ばれてた時代の詩とは明らかに一線を画していて、結果「今天」は1980年9月に強制停刊の措置を受ける。天安門を経てその後「北島」さんはデンマークへと亡命して詩作を続けるんだけど、「今天」の発信したモダニズム溢れる文学は当時の中国の若者の熱狂的な支持を受け、その後の中国の文学に大きな影響を残すことになる。


「北島」さんの経歴と、文化大革命を含めた中国の現代の歴史を考えたとき、もしかすると日本人にはこれほど峻烈な詩を書くことは無理なんじゃないかと思ってしまう。
もちろん、日本には谷川俊太郎さんはじめ、多くの凄まじいまでの詩を書く人たちがいっぱいいるのは知っているし、そもそもこんなことは勝ち負けじゃないことは十分にわかっているつもりなんだけど。

(北島さんの世代の詩は、文学史の中で今は「朦朧詩」っていう名前で呼ばれている。「朦朧詩」。「朦朧としてつかみどころがない詩」っていう意味。19世紀のヨーロッパでモネやルノアールなんかの描いた絵が、「印象派」(=この印象だけで芸術を語る奴め!)って揶揄されて付けられたのと同じ、罵倒から付けられた言葉。)




*


こんな詩って、他にもいっぱいあるんだろうか。

大きい本屋さんで探した限りでは、「海外文学」の棚はイギリスやフランス、あとアメリカの文学で埋められてた。

隣の国なんだから、もっと中国とか韓国の文学があってもいいのにね。









中国現代詩三十人集―モダニズム詩のルネッサンス

中国現代詩三十人集―モダニズム詩のルネッサンス

  • 作者:
  • 出版社/メーカー: 凱風社
  • 発売日: 1992/03
  • メディア: 単行本


nice!(0)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:

テスト [その他]

テスト
nice!(0)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:日記・雑感

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。

×

この広告は1年以上新しい記事の更新がないブログに表示されております。